随談第33回 上村以和於相撲噺(その6)

しばらく間があいたが、相撲噺の締めくくりをつけておきたい。前の野球噺もそうだが、ただの思い出話を昔語りにしているつもりはないのであって、それぞれのいま現在を、暗に論じているつもりである。歌舞伎の話をちっともしないという声もあるようだが、それについても、野球や相撲の話をしながら、ひるがえって歌舞伎の話にも通じることを、話しているつもりなのだ。

今場所も朝青龍が優勝した。前にも書いたように、私は朝青龍の相撲振りに惚れて、しばらく不熱心になっていた相撲放送を見るようになったぐらいだから、その優勝は欣快事である。日本人の力士が優勝しないからつまらないという説があって、もちろん気持ちは分かるが、少し料簡が狭いと思う。外国籍の弟子を入門させるようになった以上、そういうことを言ってもはじまらないのであって、曙と貴乃花が拮抗していた頃、千秋楽の決戦で曙が優勝を浚ったとき、表彰式が始まる前に桟敷席ががら空きになってしまい、暗然とすると同時に義憤を感じたことがある。なんという根性の狭さなのだろう。

私だって、琴欧州や黒海の頭髪が金髪でなくてよかった、というようなことを思わないではないけれど、しかしかれらの態度物腰をみていると、なまじな日本人の力士より相撲取りらしさを感じることも少なくない。朝青龍などは、久しぶりに相撲取りという言葉がぴったりな相撲取りが現れたと思っている。

「おすもうさん」という親しみと敬意がこもったいい言葉がむかしからあって、魁皇などはたしかにそういうムードを持っているが、このごろは「力士さん」などという不思議な呼び方をする人もあるらしい。「おまわりさん」というのはいいけれど、「巡査さん」とか「警官さん」などといったら珍妙だろう。

このあいだ原稿書きに疲れて少しうとうとしていて、ふと相撲放送をつけると、向こう正面に坊主頭にホワイトシャツ、ネクタイをきりっと結んだいい男がアナウンサーと喋っている。一瞬、海老蔵がゲストで出ているのかと思ったが、よく見ると、元の寺尾だった。間違ったのは多少寝ぼけ眼だったせいだが、しかし、あれはよかった。男の艶があった。

栃東などのインタビュウを聞いていると、なんとアタマがよくて神経が細やかなのだろうと思う。もちろん頭がいいことも神経が細やかなのもいいことだが、この人これでは横綱になるのは大変だろうなと、正直、思ってしまう。朝青龍だって頭もいいし(あの日本語会話のうまさはどうだろう!) 神経も細かいと思うが、それがひと筋に勝負に賭ける人間の迫力になっているのに、栃東のは残念ながら、頭のよさ神経のこまやかさが勝負師とは別の種類のもののような感じがする。たしかに相撲巧者だが、同じ栃でもむかしの栃錦のような、勝負のための頭のよさ、神経の行き届いた鋭さや風情のよさは、むしろ朝青龍の方が、共通するものを覚える。タイプは違うが若乃花にしてもその点は共通していた。

要するにプロフェッショナルの魅力なのだ。常人の到底及ばない鍛え上げたものを身に備えていて、それがあるゆえに、土俵を離れた浴衣がけの姿ひとつにも粋な風情が漂う、いいオトコになるのである。(この稿、つづく)

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