隋談第45回 観劇偶論(その18)

異常残暑に見合わせたようなふしぎな取り合わせの今月の歌舞伎座だが、ひとつ書いておこうと思うのは『勧進帳』での吉右衛門の弁慶である。というと、今さらでもないようだが、実を言うと、私はこれまで吉右衛門の弁慶でとりわけ感服したということはなかった。さりとて悪いとも思わない。吉右衛門ならこのぐらい出来て当り前だろう、まあそんな感じで見ていることが多かった。やり方も、父の八代目幸四郎などと同じ、現代で最もオーソドックスとされている実事本位の、風格ある知勇兼備の英雄的弁慶で、そういう点からいっても、つまり良くも悪くもあまり特徴のない、何かと論じたりする対象になりにくかったということもある。

しかし今度の弁慶を見て私は感服した。格別に、いままでと違う行き方をするわけはない。しかしひとつひとつの仕事が、ゆとりがあって、たっぷりと筆に墨を含ませて、急ぐでもなく、さりとてやたらに慎重すぎもせず、のびやかに筆を運んでゆくような趣きがある。男盛り、芸盛りの男の艶と渋みがある。吉右衛門はいま、本当に「いいところ」にいるのだ、そのことだけで、十全に具足したものを見る喜びを我々に抱かせてくれる。

詳しい評は『演劇界』に書いたのでそちらを見ていただくことにするが、たとえば、はじめに義経が出て、花道でひとくさりある。そのときに吉右衛門の弁慶は、昔の九代目團十郎もそうしたというが、花道中程に坐って義経の言を聞き、義経を諌める。ここで坐るべきか否かという議論を始める気はない。そうではなく、こんどの吉右衛門の弁慶を見ていると、ああ、ここは当然、弁慶は坐るべきものなのだなという気持ちになるのである。立ったまま義経に応対する弁慶というものが、なんだか横着を決め込んでいるように思われてくる。

誤解のないように言っておくのだが、私はいま、立つべきか坐るべきかというような、型の優劣論をしているのではない。別の優の非常にすぐれた弁慶を見て、それが立ったまま演じたとして、それで納得させてくれるなら、それはそれで感服するだろう。つまり私の言うのは、吉右衛門の弁慶が自然にそうあるべき弁慶としてそこにあった、ということなのだ。役になりきる、というのとは、それはおそらくちょっと違うだろう。(「役になりきる」という問題については、いずれまた別に話をしよう。)

私はこんどの吉右衛門を見ながら、これは白鸚を超えたなと思った。もちろんこういうことは、人それぞれが、自身の思いと共に胸にあたためておくことだから、白鸚の弁慶にひとしおの思い入れのある人に向かって、こっちのほうがいいよなどとお節介を焼くつもりはまったくない。そういう思いがある方は、どうぞその思い出を大切にしてくださっていいのである。しかし、それとは似て非なる、なんでも昔のほうがよかったとする事大主義的な先入観に捕らわれているのだったら、いまの人だっていいぞ、もっととらわれずに見てごらんと言ってみたくなる。

すくなくとも、今度の弁慶は、幾度か見たお父さんの弁慶より、大きくて、のびやかなユーモアがある。ユーモア、つまり人間味ということである。

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