随談第47回 上村以和於映画噺(その4)

ずいぶん間遠になってしまった映画噺だが、まだ当分続けるつもりである。続けるも何も、下手な噺家よろしく、まだ本題に入らずにマクラを振っている状態なのだ。もっとも、昔の三平みたいにマクラがすなわち本題みたいな噺家もあることだから、これも本題の内と思って読んでくださっても一向に構わない。

前回エノケン笠置シヅ子の『お染久松』の話をしたが、あれを見たのが小学校3年生の正月で、(「100の質問」にも書いたように、いつぞや突如、吊ってあった紐が切れて落ちてきた額縁の裏から、当時の古新聞が出てきたのを見ると、東劇の「勘三郎襲名興行」の広告と並んで『エノケン笠置のお染久松』の広告が載っている。(この勘三郎は、もちろん、お父さんの十七代目の方である)、その後はるか後に文楽で(これは何故か歌舞伎より文楽の方が先だった)『新版歌祭文』野崎村なるものを見たとき、アッ、これだと思ったときの喜びというか、なつかしさ嬉しさは忘れない。

もう少し上の世代の人たちは、『法界坊』や何かで同じことを経験している筈だが、エノケンに限らずこの手のことは昔の映画にはよくあった。それも、『野崎村』や『法界坊』のようなまとまった作品より、断片的なことで、なるほど、これか、というようなケースも少なくない。しかもこの手の例は、いわゆる名画よりも、アチャラカ喜劇みたいなものに多いのは、パロディをこととする喜劇ゆえのことで、当然といえば当然に違いない。

どれを挙げてもいいのだが、千恵蔵の『新撰組鬼隊長』といういかめしい映画と抱き合わせで見たせいで殊のほか腹を抱えたのでよく覚えているのに、伴淳とアチャコの『仇討珍道中』というのがある。監督はもちろん斉藤寅次郎で、御前試合の遺恨で父親を闇討ちにされた伴淳・アチャコの若侍ふたりが、父の仇益田喜頓をたずねて道中をするという、『研辰』などと同じ、仇討物の典型的パターンである。木戸新太郎、キドシンという身の軽い喜劇役者がいたが、この映画では実に冴えていたのを覚えている。

『研辰』や『亀山の仇討』に出てくる畚(ふご)渡しというのを知ったのはこの映画だった。吊り橋を切るのもよくある手だが、畚渡しですれ違いざまの一瞬に切り落とすのは、零戦とグラマンの空中戦みたいなもので、血湧き肉躍らせる。『亀山の仇討』で先年吉右衛門と宗十郎でやったのは、準備のための幕間が長くて、始まったらあっさりだったのでがっかりだった。例の『笛吹童子』や『紅孔雀』でもこの手のことがよく出てきた。作者の北村寿夫という人には、いま思うと感謝しなければならないことがたくさんある。錦之助・千代之介で名高い映画もさることながら、原作の放送劇の方がもう一倍豊穣だったと思う。

さて伴淳・アチャコの両名が遂にいまは髭もじゃの浪人となった敵の喜頓を断崖絶壁の上の山小屋に追い詰める。折からの激しい雷雨で、切り結ぶ刀に雷が落ちてへなへなのナマクラになってしまう。その間に山小屋の足場が崩れて、絶壁から小屋が傾いてあわや落ちかかる。扉が開いてしまい、敵味方が数珠繋ぎになって落ちかかり、必死に助け合って這い上がる・・・といったギャグが、じつはハリウッド製ドタバタの直輸入だという「学問」をしたのはずっとのちのことである。(この稿もちろん続く)

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