随談第61回 野球・相撲噺(その4)

九州場所が始まったので連日見られるかぎりは見ているが(それにつけてもNHKが夜にダイジェストを放送するようになったのは、NHKとしては近頃最大のヒットである。ただし週末に放送時間が変るのはある程度は仕方がないが、極端に遅い時間になるのはよろしくない。この手の番組は毎日できるだけ一定の時間にすべきである)、それにしても入りの悪さは目を疑う惨状である。これまでも、テレビカメラはなるべく空席が目立たないように撮っていたようだが、今場所はもうどんな撮り方をしてもごっそり席があいているのが映ってしまう。そんなに、いま相撲はつまらないだろうか?

前にも書いたように、私は近年の朝青龍の活躍によって一時失いかけていた大相撲への興味を回復した人間である。そういう目から見ると、いまの相撲をつまらないと思う人の考えがもうひとつよくわからない。少なくとも、朝青龍が強すぎるからつまらないというのに対しては、何を見ているのだと言いたくなる。それをいうなら、朝青龍ぐらいしか見るに値するものがない、と嘯く方がまだしもいい。外人力士が勝つのがいやなら、そもそも高見山を入門させた時点で相撲を見るのをやめるべきだったのだ。

ところで今日の中日を見ていたら、私がひそかに贔屓にしている安美錦が人気の高見盛をきれいに打っ棄って勝ったのが見事だった。あとで「大逆手」という最近作られた新しい決り手に変更になったが、要するに「うっちゃり」である。安美錦は風情も相撲振りも正統的な技能派らしい面影があって、以前から目をつけていたのだが、あれでもうひとつ激しさが前に出るようになれば、迫力が増し、誰の目にも立つようになり、人気も出る筈だ。先場所、朝青龍を足癖で破った一番など、安美錦の真面目を見せるものだったと思う。

打っ棄りという技は、追いつめられての捨て身の技だから、それ自体はほめられることではない。しかしこういう決まり手がいまの相撲に稀にしか出なくなったのは、取り口が淡白になり、攻防・応酬や土俵際の粘りをみせる相撲が極端に少なくなったからで、そういう意味では、たしかにこのごろの相撲はつまらなくなった。

打っ棄りというと思い出すのは、柏鵬時代に大関の一角を張りつづけた北葉山で、右前褌を鷲づかみにして一気に突進する柏戸の猛攻を土俵を四分の三周ぐらい伝いに伝って遂に打っ棄ったり、大鵬に低く喰いついて、大鵬も充分承知しながら、それでも見事に打っ棄ってしまった一番とか、横綱になる器量ではなくとも、大関としては成績だけでなく、存在感のある好力士だった。(柏鵬時代というのは、柏鵬のほかに、佐田の山、豊山、栃の海、栃光、北葉山と、大関以上だけでも揃っていたのだから、層の厚さからいえば一番だったろう。栃若時代は、それに対し名関脇の時代だった。)

中日にはまた、久しぶりに水入りの一番があったが、両力士が片やに下りて水をつけている間、行司が端然と土俵に残った足型を見つめ、組み手をてきぱきと指図して相撲を再開させる、昔の行司たちの風格がなつかしく思いだされた。今回は行司力士とも不慣れのように見受けられた。反対側の組み手を確認せずに分かれさせてしまったし、行司が足の位置を決めているときに隆の若がもそもそ足を動かしたのもよろしくない。

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