随談第69回 観劇偶談(その30、番外映画噺3)

『お茶漬の味』メモの続き。

この作品の制作が昭和27年であることの意義を少し考えてみる。小津作品としては『麦秋』の翌年、『東京物語』の前年で、このふたつの名作の狭間に落ち込んだどちらかといえば失敗作というのが、どうも定説らしいが、昭和27年という戦後史の中でも特別な年をショットとして切り取っているという意味では、それだけでもユニークな意味がある。

戦後史年表風にいえば、この年は講和条約発効の年であり(つまり進駐軍が帰った年である。あの三角帽をかぶったアメリカ兵たち!)、メーデー事件やもく星号墜落の年なわけだが、小津映画の例によってそうした社会的大事件は一切出てこない。戦争の影は、貿易会社の部長をつとめるあの裕福そうな主人公の身辺には、鶴田浩二演ずるノンちゃんと呼ばれている暢気者の青年が、佐分利信と酒を飲みながら、兄が戦死して母親がそのことをいまだに苦の種にしているということを、ややしんみりと語る場面以外には出てこない。鶴田浩二のノンちゃんは目下就職運動中で、放出の背広を着たりしているが、そういう貧乏生活をも愉しんでいるかに見える暢気者のノンちゃんというのが、脚本の設定であり、そのノンちゃんがわずかに見せた影としての「兄の戦死」なのだ。

その鶴田浩二が、佐分利を安飲み屋やパチンコ屋に連れて行き、津島恵子をラーメン屋に連れてゆく。のちに30年代になって、高橋貞二や岡田茉莉子に(やはり佐分利信が)連れて行かれるのと同工異曲な訳だが、しかし同じラーメン屋でも昭和27年のラーメン屋には、単に初老の男が若い世代に当世流の社会教育を受けるというだけでは片付けられない鮮烈な「時代性」が、ショットの中におのずから切り取られてしまうのだ。

歌舞伎座でのお見合いをすっぽかした津島恵子をノンちゃんの鶴田浩二がラーメン屋に連れて行ってラーメン哲学を一席ぶつ。六本木に昭和29年創業ということを麗々しく謳っているラーメン店があるが、こちらはそれより更に2年古いのだ。「支那そば」が「中華そば」になり更に「ラーメン」と名称が三転する、そのプロセスの原点が「昭和27年のラーメン屋」には凝縮されている。

佐分利信が鶴田に案内されてパチンコ屋に行き、ここでは佐分利がパチンコ哲学をぶつ。笠智衆演じる店主が佐分利の軍隊時代の部下だったというところから、ここでは戦争そのものの影がくっきりと落ちてくる。しかし笠智衆が軍隊時代をなつかしがり(班長どのと佐分利は呼ばれている)はては軍歌を(かなり陶酔的に)歌うのへ、佐分利はシンパシイを見せつつも傍観者の位置から動こうとはしない。

ついでにいうと、この前相撲話に書いた栃錦が関脇で初優勝し、土俵から四本柱がなくなって屋根をロープで吊るし、四本柱に替わって四本の房を下げるようになったのも同じ昭和27年の秋場所のことである。前回書いた『晩春』の横須賀線で笠智衆と原節子がボックスシートでなく横掛けの座席に並んで坐って鎌倉から東京まで行くのも、昭和24年という時代を切り取っている。車体も青とクリーム色のツートンカラーでない。湘南電車と称してグリーンとオレンジ色に塗り分けた車両が東京・沼津間に走り出したのが昭和25年、画期的な色彩車両だった。

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