『お茶漬の味』メモも間が空いて少し気が抜けてしまったが、昭和27年という年にもう少しこだわってみたい。商社マンである佐分利信が最後に南米の任地へ向かって立つのはもちろん当時の羽田飛行場(空港という言葉はあったのだろうが、小学生であるわれわれの耳にはまだ馴染みのない言葉だった。羽田は「空港」ではなく「飛行場」でなければならない!)で、プロペラが四つある大型旅客機というのが、いかにもアメリカという国の豪勢さを代表するようにみえた。B-29をふたつくっつけた「空飛ぶホテル」というのが、元があのB-29だけに(子供ながらも)日本人には威圧的に思われた。いまでも戦時中の映像でB-29が映ると、ある種の畏怖を感じるから不思議だ。(実際に空襲にあった体験などなくてもだ。)湾岸戦争のとき最新鋭の軍機の映像がテレビによく出てきたが、そのどれよりも、B-29がいまなお一番強そうに思える。
この作品が名作と言われない最大の理由として、本来この映画は戦時中に企画され、だからこのとき夫婦和解して見送りに行かなければ一生悔いを残すことになるという思いが切実なわけだが、戦後の平和な時代に設定が変ったために話に無理ができたためとされているらしい。しかしこんど見直してみると、それほどの傷という気はしない。もっともそれだけ、昭和27年が遠い過去になったせいかも知れない。
昭和27年のもう一つ大きな出来事はヘルシンキのオリンピックというやつで、戦後はじめて日本が参加して、みじめなほど負けてばっかりだった。水泳の古橋がすでに盛りを過ぎていて辛うじて400メートルの決勝には出たもののビリだったというのが、いかにも、まだ情けないニッポンの象徴のように感じられた。その古橋のために常に二位に甘んじることが運命付けられたかのようだったのが橋爪四郎という、今で言えば仁左衛門ばりの長身痩躯のハンサムな選手で、この橋爪がこのときは好調で、1500メートルの予選を一位で通過したので期待が集まった。結局やさ男の橋爪は二位の銀メダルに終わるのだが、このとき優勝したのがハワイ出身のフォード紺野という日系二世、三位になったのがオカモトという日系人だった。つまり三人ともジャパニーズだったのである。
日系二世といえば、与那嶺選手がジャイアンツに入ったのが前年の途中からで、この27年には中日の西沢と首位打者を争って最終試合に安打が出ず、二位に終わったが、私はこの与那嶺のファンだった。王貞治氏が少年時代にあこがれの与那嶺選手のサインを貰ったという話をいつかテレビでしていたが、同世代人としてその感じ、よくわかる。このあと広田捕手だの西田投手だの柏枝三塁手だの、日系二世の選手が次々と巨人に入るのだ。
『お茶漬の味』から話が脱線しっぱなしだが、つまり昭和27年という時点での外国の距離というものを、子供なりの実感から思い出してみたのである。佐分利が女房の木暮実千代に愛想をつかされるきっかけになったのが、味噌汁をぶっかけ飯にして食べたからというのは昭和27年に限った話ではないが、この終戦直後というにはささやかな安定を取り戻し、もはや戦後ではないというにはまだ傷跡が生々しいこの季節のことを、もう少し、人は認識していい筈である。