夕刊を見て尾上松助の死を知った。ちょうど一年前の南座の顔見世を休んでから、久しぶりに11月の『児雷也』に仙素道人の役で出たが、鬘を深くかぶり白髯をつけ、セリフは機械を通した声という気になる出演の仕方だったが、今にして思えば一期の思い出のための出演であったのかも知れない。思えば昭和三十年代、『鏡獅子』といえばもっぱら梅幸の専売だった頃、胡蝶といえば松助の緑也か弟の現大谷桂三の松也、それに團蔵の銀之助とほぼ決まっていた。團蔵とはそのころからお神酒徳利だったわけだ。
やや長じて『め組の喧嘩』などが出ると、梯子をかついでわっしょいわっしょいと駆け出してくるトップあたりにいて、いかにも都会っ子らしいすっきりとイナセなちい兄いの風情があって、なかなかよきものだった。近年でも、昭和通りあたりを洒落たセーター姿で歩いている姿などを見かけたが、さりげないダンディ振りもいい風情だった。それにしても松助とか勘五郎とか、由緒ある脇役の名跡を継いだ人が、これからという年齢で早世してしまうのはどういうことなのだろう。松助のためにも、また歌舞伎界のためにも、この死は惜しみても余りある死である。
脇役の払底ということがよく言われる。事実そうには違いないが、しかし少なくともこの二、三年に話を限るなら、我当や彦三郎クラスがいい年配に達して、彼らなりの熟成した味を見せるようになったし、たとえばこの月の国立劇場を見ても、彦三郎の松江侯、左團次の金子市之丞、幸右衛門の北村大膳、歌江の上州屋の後家、鐵之助の遣り手と揃ったところなど、むしろ壮観と言ったって差し支えないようなものだ。11月の『絵本太功記』での吉之丞の操にしても、品格といい義太夫狂言の老女の演技といい、あれだけのレベルのものがそうざらにあろうとは思われない。
錦吾にしても、和泉屋清兵衛はちょいと貫目不足だったが、前月の『文七元結』の藤助など、あの狂言に出た誰よりもあの芝居の世界に生きている人物になっていた。幸太郎の上州屋の番頭にしても、番頭の演技として今後のお手本になるだろう。(もっとも蕎麦屋の亭主は蕎麦をゆでる仕種に張り切りすぎて、直次郎がせっかく股火鉢をしたり猪口に浮いた塵を割り箸の先でのけたりする「細かい」芸を見せているとき、観客の目を奪いかねなかったのは、勇み足というべきだろう。)千代春と千代鶴を遣った京妙と段之は国立養成所の出身だが、このクラスの連中もここまで来ているという好見本だった。
たまたま印象に新しい最近の舞台から例を取ったが、もっと丹念に洗っていけば実例はたちまち更に挙がることは間違いない。秀調のいい仕事ぶりなども、ちょっと思い起こすだけでも、年間を通じて印象的である。あの狂言のあの役に人がいない、というようなことを考えていけば、確かに、脇役が手薄なことは否定できないが、さればといって、脇役払底を紋切り型のように唱えて、憂国の士気取りで歌舞伎衰亡論を嘆じてばかりいる批評家や見巧者という存在も、あまり感心したものではない。少なくとも、現に成果を上げている脇役者たちの努力や精進を、見れども見えずという視野狭窄はいただけない。松助の死は大きな痛手だが、紋切り型の憂国論だけは見たくもない。