随談第80回 観劇偶談(その37)新年各座評判記・『信長』篇

新年各座の評判記、今回は『信長』と行こう。

見ようかどうしようと迷っている人がいたら、見ろと答えよう。おもしろいか、と問われたら、うん、なかなかいい脚本だと答えよう。いい舞台か、と問われたら、うん、なかなかいいよ、海老蔵はね、と答えよう。言ってしまえば、答えは以上に尽きる。

評判だけで海老蔵を知っていた人が、この信長を見たら、なるほど、音に聞こえた海老蔵とはこれかと思うだろう。既に海老蔵を知っている人が見たら、海老蔵は一段とオトコになったと思うだろう。いいけれども、まだ青いなと思っていた人が見たら、大人の男を演じられるようになったじゃないかと思うだろう。テレビの大河ドラマだけで海老蔵を知って、海老蔵ってセリフを怒鳴るように言う役者だと思っていた人が見たら、海老蔵って静かなセリフも結構言えるんだなと思うだろう。そう、つまり海老蔵は、役者としての階段をいままた登ったのである。それも、かなりの大股で。

信長物のドラマってパターンが決まっている、大体想像がつくから見なくてもいいや、と思っている人がいたら、私はまあそう言わずに見てご覧と言おう。史実は根本だけ押さえる。人物関係などをめぐる細かい経緯は大胆にドラマの展開を優先して組み立てなおす。しかし信長は神になろうとした、という根本テーマは、作者の発想の自由にまかせていると同時に、安土城発掘などから得た新見解を巧みに取り込み、それをドラマの根本に生かしている。『ヘンリー四世』だのなんだの、シェイクスピアの歴史劇だってそういう作り方をしているではないか。そう、斎藤雅文の新脚本はなかなかの上出来である。

ポスターで、海老蔵の信長は洋服を着ている。これは海老蔵自身の発想であるらしい。劇の中で信長は、宣教師フロイスから地球儀を見せられて、地球が丸いことを理解する。同時に、日本が世界の中でいかにちっぽけかを理解する。宣教師たちが、丸い地球の裏側からやって来たのであることを理解し、西洋の学問技術の素晴らしさを理解する。同時に、西洋人の考える神の性格を知って、それなら自分が神になろうと直感する。信長は日本で最初に世界を見た人物だというのが、海老蔵が洋服を着て信長を演じようと考えた理由であるらしい。いや、洋服を着ない信長なら演じなかっただろう。

そういう信長を、海老蔵は、尾張のうつけ殿の若き日から、世界を見、みずから神になろうと発想した壮年期、本能寺の最後まで、それぞれに真実感と実在感を感じさせつつ演じ、そのどれもが格好いい。もしこれが、海老蔵を見せるためだけに作られたドラマであったとしたら、目的は100パーセント達成されたと言っていいだろう。

だがそう言ってしまうには、この脚本は出来がよすぎる。信長の妹お市と妻濃姫の関係、秀吉と光秀の関係、史実の勘所だけ押さえながら大胆に改変し、しかもそれぞれの人物の本質を実感させるだけに描いている。だがその人物たちを舞台上に造形するには、海老蔵以外の演技陣がいかにも弱い。秀吉役と濃姫役にはそれなりの実感があるとしても、光秀役とお市役は、ドラマの人物の半分ぐらいしか演じていない。もっと力のある配役を揃えられたなら、海老蔵を見るためだけのドラマから、この作の真価がさらによく理解されるだろう。

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