随談第570回 今月の舞台から

まずは雀右衛門襲名の歌舞伎座から。菊吉仁幸に長老坂田藤十郎まで顔を揃える大一座で襲名興行を開けるというのは、新・雀右衛門にとってはもちろん名誉だが、歌舞伎界としてもそれだけの展望をもってのことであろうか。『鎌倉三代記』が吉右衛門の高綱に菊五郎の三浦之助、『金閣寺』が幸四郎の大膳に仁左衛門の藤吉の上に藤十郎の慶寿院までお出ましとなれば、これ以上の待遇はないわけで、これは襲名のご祝儀だけでなく、歌舞伎界の立女形としての待遇とも見える。雀右衛門は夙に吉右衛門を中心とする一座での実質上の立女形としての働きを示して来たが、思えば亡き四代目も、永らく、実に永らく、常に三番手四番手のような位置に置かれて来たのだった。もしあれで、90余歳という長寿に恵まれていなかったなら、と考えれば、おそろしいような、気が遠くなるような感慨に襲われる。

夙に打率・出塁率の高さでは累年の実績を重ねている新・雀右衛門、このたびの時姫、雪姫二役、クリーンに放った二塁打と見る。まぐれか実力か分らないような場外ホームランなど打たないところが新・雀右衛門たるところだが、「口上」で東蔵が、これからはもっと芸の上で自己主張をされるとよろしからむ、といった趣旨のことを言ったのが、ヘエエと唸らされた。

(「口上」といえば今回は、たとえば菊之助は出ない。菊五郎が出る以上、一家の長でない者は列座しないという、やや古風な行き方で、これは近頃結構なことである。人気があるからといって若い者を並ばせても、「この席へ連ならせていただきましたことを喜びおる次第にござりまする」ぐらいのことしか言わないのでは列座する甲斐がない。それにつけても、立者連にしても、これもプログラムの一演目として見せる以上、何も左団次流を真似る必要はないが、もっと内容のあることをしゃべるべきだ。ところで、我當が『口上』のためだけに出演している。その心意気やよし。)

『三代記』では菊五郎が休演で三浦之助を菊之助が代わったが、代役などとは微塵も思わせない水も漏らさぬ出来。フィギュアスケートの採点よろしく点数を付けたなら、菊五郎より高得点になるに違いない。しかも立派な本役である。たぶんこれは菊之助終生の当たり役になるだろう。

襲名の二狂言の次に位置付ける狂言として『対面』と『双蝶々』の「角力場」でどちらも橋之助が工藤に濡髪と座頭役をつとめる。当然ながらこれが、彼の座るべき場所であることが、こういう大一座の中に置かれてみると改めて見えてくる。秋の芝翫襲名、期待してますぞ!

『対面』では勘九郎の十郎に、中村屋三代に通底する和事味があるのを嬉しく見た。この祖父から孫へつながる和事味こそが、勘三郎三代の芸の根源であり故郷なのだ。但し目下のところ、まだそれが勘九郎自身の芸の味として発酵するところまで行っていないから、やんやと受けることはないのは仕方がない。

『角力場』は菊之助が与五郎と長吉を替わって、ここでも完璧主義者らしい歌舞伎界の金妍児(キムヨナ)ぶりを発揮するが、そうなると今度は、長吉という役はこんなに目から鼻に抜けるようなアンちゃんなのだろうか?という疑問も沸いてくるのが歌舞伎の難しいところ。もうちょっと鼻の下に生意気をぶらさげているような、アサハカサが見えていた方がオモシロイのではあるまいか? 濡髪の八百長がらみの恩着せ行為への怒りが、正義感の発露だけになってしまうと、話が割り切れすぎてしまって芝居のコクが薄くなる。

中幕だの追出しだのの格付けで小品の踊りが四つも並ぶのも今回の一特色だが、昼の部の第二に『女戻駕』と『俄獅子』が二段返しのように出るのがちょいと気が利いている。とりわけ、時蔵に菊之助に錦之助の奴という『女戻駕』が近ごろ出色だが、ところがせっかく俄の踊りを上下(と謳ってこそいないが)にして出すのだから、暗転にしてつなぐのは、野暮というよりせっかくの興趣を殺がれる。『俄獅子』の場面が吉原仲ノ町だから、『籠釣瓶』の序幕よろしく、いわゆるチョン・パにしたのだろうが、単独で出すならそれもよかろうが、ここは明るいまま背景を折り返して居所変わりにしなくては! チョン・パというのは電気照明が生み出した近代の産物で、アッと驚かせるにはいいが、「俄」のようななんどりとした小品をふたつつなぐのにはふさわしくない。先の雀右衛門が革ジャンにジーンズでオートバイで楽屋入りして、時姫や雪姫を演じたのとは似て非なるミスマッチである。

『団子売』は仁左衛門がますます玲瓏。『金閣寺』の藤吉にしても、こんなに透き通ってしまっていいのだろうかという気も、一方ではしないでもないが、病気回復以来、これもこの人の到達したひとつの境地でもあるのだろうか?

久々の『関三奴』。踊りとしては勘九郎が一番うまいが、こういう古風なものだと、鴈治郎の鷹揚な役者ぶりがちょいと味がある。松緑は少し顔を描きすぎではないか?

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何年ぶりかという新派の国立劇場出演に選ばれたのが(『婦系図』でも『鶴八鶴次郎』でも『天守物語』でもなく)『遊女夕霧』に『寺田屋お登勢』というのはなかなかよく考えた演目選定であろう。「花柳十種」と「八重子十種」から選ぶという、戦後の新派の高峰の頂上部分を選び取り、それが波乃久里子と当代八重子に受け継がれた、「新派のいま」の極上部分を見せようという狙いは成功だった。入りも、少なくとも私の見た日は一階席に空席がほとんど見当たらないという、相当のもののようだったのは、ある種の新鮮な印象を与えた結果かもしれない。

とりわけ『遊女夕霧』に感心した。『人情馬鹿物語』はそもそも、原作である小説も、自ら脚色した芝居も、川口松太郎の最高傑作だろうが、いま改めて見ると、なんという「大人」の芝居であろうか。「人情馬鹿」という、人間通としての作者のつかまえどころといい、コトバコトバコトバで成り立っている芝居造りといい、それを演じ、それを見て泣いて笑って心洗われて帰って行ったかつての新派の役者たちも、その観客たちも、なんという「大人」たちであったことか。多分そのかなりの部分は、今日の観客の半分程度の学歴も知識も持ち合わせていなかった筈だが、それにもかかわらず、こういう芝居を見事に受け止め、愉しんだのである。

夕霧の久里子も、円玉の柳田豊も、その他の誰彼もよくやった。与之助の月之助も健闘した。かつての誰それは…とは言うまい。少なくとも今、これ以上に出来る者は他にあるまい、今日能うる限りの布陣である。

今月の新派は、国立の舞台に背水の陣を敷いた。その気迫が伝わってくる。そこに感動がある。

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