吉祥寺の前進座劇場で『三人吉三』を出している。いわゆるお正月メニューでなく、冒頭の「大川端」で、こいつぁ春から縁起がいい、というのを新年に利かせてある以外は、いつもの前進座流で押し通すのがかえっておもしろい。以下の文章は前進座の機関紙に向けて書いたものだが、ここにも載せさせてもらうことにしたものである。
矢之輔の和尚吉三、国太郎のお嬢吉三、菊之丞のお坊吉三という、前進座にとっては三世代目のトリオによる『三人吉三』だが、この第三世代が上演回数が一番多いのだという。だが舞台ぶりを見る限り、手馴れた芝居をしているというマンネリズムはまったく感じられない。脚本も普段省略されたり、原作にはないが筋や人物関係を明確にするために必要なセリフを随所に補うなど配慮も行き届き、演者も新たな工夫を怠らない。
たとえば様式美で知られる序幕の「大川端庚申塚」で、お嬢吉三が厄払いの声を聞いたあと、杭に掛けていた足をはずしてツラネのせりふを続けるなど、様式の中にリアリズムを交える面白い工夫がある。厳しくいえば、男の声と女の声の切り替えなど、黙阿弥の様式性とリアリズムの間をいかに前進座歌舞伎として確立するか、まだ工夫の余地はありそうだ。土左衛門伝吉が十三郎の身投げを救う件は普通の上演では出ない場だからなおさら無理もないのだが、祥之助ほどの練達のベテランにして、七五調のリズムに乗ったセリフがいかにも言いにくそうだ。
じっくりと芝居をする場面になると、前進座らしい質実な地の芝居のよさがじわりと物を言ってくる。「大恩寺前」で伝吉がお坊吉三に、小僧セリフはそれだけかと凄むところなど、この老盗賊の複雑な過去を背負った人生を裏打ちした見事さで、黙阿弥の芝居の奥の深さを焙り出す。和尚吉三も眼目の「吉祥院」では地芸の確かさを見せる。お坊とお嬢も衆道の関係にあることを踏まえ、互いに死を決意する場面など、すぐれた雰囲気を見せた。
三人の吉三はそれぞれ適役だが、とりわけ菊之丞のお坊が得がたい仁のよさを見せる。
脇の役々も黙阿弥の世界を生きる人物として誰一人おろそかにできないが、皆々努力が窺われる中で、中嶋宏幸の源次坊がよく黙阿弥劇の雰囲気を掴んでいる。
ちょっと付け加えておくと、『三人吉三』はこれで、大歌舞伎で普通にやるいわば当代でのスタンダード版、勘三郎のコクーン歌舞伎版、それに前進座版と三種類のバージョンが揃ったわけだ。それぞれに相当のいわれがあり、それぞれに存在意義がある。前進座のは、(一度国立劇場で先代国太郎が文里一重の件を出したが)場立ては普通の松竹歌舞伎と同じだが、上記のように「大川端」で伝吉が十三郎を救う件を出すなど、随所に前進座らしい改訂を施している。よく言うことだが、洗練された松竹歌舞伎とは違った、これはこれでユニークな存在を主張し得る『三人吉三』であることは間違いない。東京での公演はもう終わってしまったが、この後各地を廻り(北陸が多いようだが、豪雪の影響が気がかりだ)2月半ばに大阪の国立文楽劇場にかかるらしい。チャンスのある方にはお奨めする。