随談第96回 スポーツ偶談(その5)

うかうかしている間に月が変わってしまったが、もう一回スポーツ偶談にしてしめくくりをつけておこう。

オリンピックは結局、起きても寝ても荒川静香ひとりのオリンピックということになって終わった。一将功成って万骨枯れたようなものだが、決勝の演技を見る限り、こういう結果になったのも当然と言うほかないだろう。文字通り完璧という他はない出来栄えで、心技体備わって持てるものすべてが、よい方よい方へと集中したのだ。

答えは、最善を尽くしたら金メダルになっていたという、ご本人の弁に率直に語られている通り、気力と無欲が理想的な均衡を保つ中で演技が行なわれた結果というに尽きる。もうひとつ、これもプロ指向があるというご本人の弁にあるように、彼女には、他者の目に対する意識が確固としてあることだろう。例のイナバウアーを敢えてやった根性がすべてを語っている。要するに「天の時」と「人事」を尽くすことがみごとにマッチしたのだ。

これがなかったら、アルペンの回転で4位入賞などというのは、陸上の100メートルで入賞するのと同等な、つまり下手な金メダルより価値のある快挙である筈だが、すべて吹っ飛んでしまったのは是非もない。

それにしても、フィギアスケートひとつとっても、以前はシングルとペアだけだったのが、いろいろな種目が増えたのにはすこし呆れる。新種目のすべてがいけないわけではないが、なんだか変てこなのや、むりに細分化したようなものもある。夏の大会も同じだが、そういう中で、野球がはずされたという事実は何を意味するのか、もっと考えるに値すると私は思っている。

事情通にいわせればいろいろ裏事情もあるのだろうが、煎じ詰めれば、オリンピックを仕切っている人々の文化的背景の中で野球というものの存在がきわめて希薄だということに尽きる。なじみがないから関心がない。要するにそういうことなのだ。

もちろんそれは偏見以外の何ものでもないが、しかしひるがえっていうなら、ある意味ではそれでいいのであって、そもそも野球(とかアメリカのバスケットボール)のような、プロスポーツとして爛熟しているものは、オリンピックなどに色目を使う必要はないのだ(というのが私の基本的な考えである)。大相撲に外人力士が増え、海外でも相撲が盛んになったとして、そうなったら大相撲自身が(アメリカのメジャーリーグのように)もっと国際色豊かになればよいのであって、オリンピックの種目などに入れてもらう必要はない。

それよりも、日本のプロ野球人がもっと認識すべきは、こんど開かれるWBCのような大会の意義だろう。イチローが随分熱心らしいが、メジャーリーグでやるところまでやった人間には、そこらのことがよく見えているのだ。反対に松井が王監督への義理には悩みはしたが、WBC自体には気乗り薄だったのは、まだイチローほどの余裕がないために、そこをよく見つめる目を持てずにいるのだと私には見える。しまった、俺も出ればよかった、と松井に後悔させるほどの成果を日本チームが、ひいてはWBCそのものが挙げられるかどうかに、野球の将来はかかっていると私は思う。

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