随談第97回 観劇偶談(その42)PARCO歌舞伎『決闘高田馬場』

パルコ歌舞伎の新聞評は別の人が書くことになったので、劇評よりもう少し気軽な形でここに書くことにしよう。

結論的感想をまず言えば、たのしんで見ました。早速に朝日にAさんの例によって犀利な絵解き解析風の評が載ったが、いつもながら巧妙なA氏節である。染五郎の中山安兵衛を間にはさんで、亀治郎の優等生武士史観と勘太郎の民意代表みたいな町人史観を配したシンメトリイ構成(などという言葉はAさんは使っていないが)という解釈は、天晴れな御手の内というものだろう。

今回は忠臣蔵の堀部安兵衛としての安兵衛は出てこないが、当然、そのことはみんな知っているから(パルコに来るような世代は案外知らないかな? とすると、A氏評は深読みし過ぎの独り相撲評ということになってしまうが)、事は忠臣蔵批判まではらんでいることになる。

忠臣蔵まで深読みをすることになると、当然、あの野田版『研辰』を連想することになるし、安兵衛以下が高田馬場へ駆けつける姿も『研辰』の追いかけと二重写しになることになる。それをいうなら、安兵衛が喧嘩の仲裁業に身を持ち崩して剣術の腕がすっかり鈍ってしまったというのは、勘九郎最後の舞台でやった老後の桃太郎を思い出すことになる。ま、そういうパロデイでもあるのかな。(しかしプログラムに載っている安兵衛の駆けつけの写真は、バンツマの映画をぱくった、いやさバンツマに学んだものに違いない。)

安兵衛を献身的に支援していたかと見えた勘太郎のやっている大工が、突如、敵方のスパイだったということになる設定は、A氏風に大真面目にとれば仇討に対する庶民の両面の反応を反映していることになるが、案外、プログラムの座談会に勘太郎が語っている、同時期に同じ渋谷のコクーンで芝居をする勘三郎と七之助から、お前スパイだろと言われたという発言から思いついたのではないかという気もする。

しかし今回一番目立つのは、一に亀治郎、二に萬次郎でありまして(その喜劇的才能はたいしたものだ。じつは私、彼のその才能、前から知っていたけどね)亀治郎二役の内、堀部の娘の方は去年の『十二夜』のマライヤの呼吸、マジメ侍の方は『忠臣蔵』五・六段目の千崎弥五郎の呼吸で本息でやっているから(声の質といい、サシスセソがsha/shi/shu/she/shoになるところまで猿之助そっくり)まあ見事なものだが、(しかもついこの正月、浅草で本物の千崎をやったばかりだ)、見事であればあるほど、それがこの「三谷歌舞伎」の中にすっぽりはまると、そのまま歌舞伎のパロデイに見えることになる。ということを、みんな承知の上でやっているのだろうか? 

思うに、鋭敏且つ頭脳明晰な彼らのこと、おそらくは承知の上であろう。とすると、それはどういうことになるのだろう。別なところで、亀治郎が、歌舞伎を一回壊してしまい、また新しく作り直した方がいい、と語っているのを読んだが、亀治郎に限らず、若い世代の俳優たちは、ある種の「歌舞伎崩壊」のときを直感として予期しているところがあるような気がする。

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