随談第100回 番外・野球噺

いま、宮川泰の追悼番組を見ながらこれを書いている。プロ中のプロと出席者も言っていたが、ラテンからジャズからクラシックから演歌から、八双兼学の冴えを見せるあのダンディズムを成立させていたのはまさしくプロフェッショナルとしての意識であり、時にテレビ風の悪落ちに傾きかけても紙一重のところでするりと回避してしまうあたりが、実に水際立っていた。たしかに、プロというのはかくのごときものをいうのであろう。素人くさいところが毛筋ほどもなかった。第一、芸が綺麗だった。かつての桂文楽の言い草ではないが、芸をするものはやはり綺麗でなければならない。

大相撲はまだ12日目で決着がついていないが、栃東がすでに三敗して横綱がお預けになった。先場所優勝後に土俵下で決意表明をしたりしたので、オッとおもったのだが、嗚呼、また元の木阿弥になってしまったのである。大関を狙う白鵬にはあきらかに見えるオーラが、栃東にはない。白鵬は化けたが、栃東は化けていない。化けられない人が横綱になっても、苦労するばかりだろう。ここにも、プロとしての意識の問題が横たわっている。

ところでWBCが天の配剤のような形で終わって、お祭り騒ぎ風ばかりではなく、言われるべきこともかなり適確に言われているようだが、何故私が天の配剤と思うかといえば、日本が優勝したからではない。

もちろん、優勝したことは大万歳である。しかし天の配剤は、韓国に二敗してすでに絶望した後の快挙だったことにある。アテネでもその前のシドニーでも、選手・コーチから報道人から一般ファンにいたるまで、格上意識が付き纏っているのがイヤだった。テレビ中継の解説をしていた星野仙一ほどの人でさえ、ことばの端々にそれが感じられた。敵を知らずして、おのれに甘ければ百戦危うくなるのは当然である。韓国に一勝二敗だったという今回の戦績は、日本のためにも韓国のためにも、さらにはWBCが真の世界選手権としての内容を整えるようになるためにも、まことに結構なことである。

アメリカのメジャーを無上と見るあこがれ・劣等意識と、その他の国々に対する優越意識の同居は、おもえば脱亜入欧以来の日本人の精神構造であって、野球だけに限った話ではないが、クラシック音楽はウィーンに漢籍は中国に、蕎麦は信州にうどんは讃岐に範を求めるのは、きまじめなA型人種である日本人のいいところでもある。高円寺の阿波踊りも本場の安波に留学してこんにちの隆盛があるらしい。メジャーメジャーと草木もなびくいまのプロ野球選手たちの動向も、根本的にはその反映だろう。

イチローの人気が急上昇し、返す刀で松井へ非難が高まっているようだが、(私も松井は参加すべきだったと思っているが)、審判の問題も運営システムの問題も、すべてが誰の目にも明らかに見えるようになったのも、天の配剤である。黒船が来て開国してしまった以上、外国へ行くなというのは無益な話である。小学生がサッカーの方が格好いいと思うのも、つまるところ、サッカーの方が世界へ通じていると思うからだ。解決法はただひとつ、WBCを真のワールドカップにして、日本の野球が世界の強豪に伍して一級国であることを見せること以外にはない。

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