随談第105回 観劇偶談(その46)こんぴらかぶ記(上の巻)

11、12日の両日、こんぴら歌舞伎を見てきた。前日は東京もそうだったように、四国も三月のような寒さだったとのことだが、一泊して二日がかりで見た両日は、さいわい春らしい陽気に恵まれた。もっとも朝羽田を立つときは、高松空港の天候次第で伊丹に降りるかもしれないなどとおどかされたが、前日にはじっさいに伊丹に着陸ということがあったと聞いた。讃岐は霧の多いところらしい。

昼前に着いた当初は時おりぱらぱらと落ちてきたりしていたが、やがて晴れて、桜もちょうど見ごろ、金丸座へのぼってゆく中腹にある、いまは公民館になっているが元は由緒ありげな神社だったとおぼしい建物の庭の桜はひとしお風情があった。聞けばつい先日、そこで出演者・スタッフ等でお花見をしたとのこと。

まず『比翼稲妻』。三津五郎の山三、海老蔵の不破、亀治郎のお国に葛城という配役は、聞くだに魅力的だが、金丸座の空間で見るとひときわ、南北劇の中でも私がとりわけ気に入っている、奇あり怪あり、諧謔あり洒落あり、人の世を直視しながら斜めに見ているような、関わりながら達観しているような、悠然としながらとぼけているような、回り灯籠を眺めているようなこの作の面白さを改めて知ることになる。「山三浪宅」の雨漏りに傘をさす場の、いかにも珍奇でありながら自然な、リアリズムなどということとは全然違う演劇観のつくりだした異空間の「真実味」。そう、歌舞伎という異空間が、同時にきわめて自然なものとしてそこにあるのだ。

あとで三津五郎に話を聞くと、先年国立劇場でこの芝居を出したときから、金丸座でやることを考えたのだという。国立の舞台空間の水っぽさは誰しも言うところだが、三津五郎の読みはまさしく的中したというべきである。お国と葛城の明と暗とが交錯して、その後にくる「鞘当」の美しさ。いわゆるチョン・パで舞台がいっときに明るくなる、だれでも知っているその華やぎに、歌舞伎座や国立劇場で見るのとはひと味、いやふた味三味違う、明のなかにかすかに揺曳する暗の匂いがなんとも言えない。

三津五郎の二枚目ぶりに中に漂う和事味は、国立劇場で見たときも魅力的ではあった。だがここで見ると、その和事味の熟れ具合がぐっと深まって見える。亀治郎のお国の可憐の中に秘めたひと筋の自尊は、予期にたがわぬしなやかさと強靭さを併せ持っている。葛城の傾城ぶりも、もうすこしあでやかに咲こぼれるようになればいうことないが、金丸座独特の明度の中で見ると、まだ咲ききらない花なりの美しさがある。

なによりも驚いたのは、「鞘当」で不破がかっと目を剥いたときの海老蔵の睨みの凄さである。これこそ、金丸座でなければ見られないものだ。「明」の中に揺曳する「暗」の匂いとさっき言ったが、まさしくその賜物である。

幕間の廊下で思いがけなく段四郎氏と出会う。そのまま長々と立ち話をするなどということも、こういう時、こういう場所ならではだろう。金丸座ははじめてだという。もちろん亀治郎パパとしての「父兄参観」なのだろうが、劇場としての金丸座にも興味津々らしい。宙乗りもできるそうですねと言う。やっぱりオモダカヤである。

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