随談第109回 観劇偶談(その50)

俳優座プロデュースの『女相続人』を見た。なかなか面白かった。すべては緊密に書かれ、組み立てられたセリフのやりとりだけで成り立っている。欧米の近代劇のスタイルを絵に描いたような劇で、舞台も歌舞伎風にいえば一杯道具、イプセン流にいえば第四の壁を取り外した、ひとつの室内だけですべてがおこなわれる。そういう、いわば古典的スタイルでかっちり作られた劇が、むしろ新鮮に映る。

役者もまずまず。鈴木瑞穂のドクター・スローパーは現在の新劇人としてのそれらしき存在感を感じさせる適任者だし、主役のキャサリン・スローパーを演じる土居裕子もなかなかの好演だった。ヘンリー・ジェイムズの小説が原作の往年の有名なハリウッド映画の舞台化で、ドクターはラルフ・リチャードスン、キャサリンがオリヴィア・デ・ハヴィランド、キャサリンに求愛するアーサー・タウンゼントがモンゴメリイ・クリフトという配役が、いかにも絶妙であったことがこんどの舞台を見ながらでも改めてわかる。

場面は一場面に限定され、すべては言葉、言葉、言葉で成り立っている劇というのが、ひとつのテーマをめぐる人物の応酬を通じて執拗に追求する、求心力をもつドラマを成立させるのにいかに適切であるかがよくわかる。また、ヨーロッパ・アメリカという世界が、たとえば「愛とはなにか」といった問題について執拗に考えるということが成立しうる精神風土をもつ世界であることを、つくづくと思わずにはいられない。

こういう風土こそ、日本にはないものだった。明治大正以来の近代文学の作家たちの中の一部が追求しようとして、そのためにはまずそういう風土を作品の中に成立させようとして、くたくたになってしまった。漱石が『明暗』あたりでしこしことやって、胃の持病を悪化させて死んでしまった。(その続編を『続・明暗』として完成させた水村美苗が海外で日本文学を耽読するという少女時代をもつ人であったというのは暗示的だ。)

この劇でも、スローパー父娘と求婚者が、結婚において愛とは何か、財産とは何かという問題をめぐって議論し、駆け引きをし、応酬する。愛という抽象的な思念と、財産という現実的な問題とが、絡まり合いつつ思弁を一層深めてゆく。ヘンリー・ジェイムズは19世紀のアメリカとイギリスの精神風土の中で往来したが、この正月に見たジェイン・オースティン原作の映画『プライドと偏見』にしても、グレアム・グリーンの小説の映画化『愛の終り』にしても、こうした精神風土がなければ生まれなかっただろう。

もちろんこんなことをいくら考えたところで、正解があるわけではない。キャサリンが、自分が相続する財産が第一の目的だった求愛者の愛を拒まず、数年後にこんどは愛こそが第一と悟ってふたたび現われた男を拒否するという結論が、絶対の正解かどうかはわからない。しかし彼女は、そのように考えるしかなかったのだ。つきつめれば、自我とそれを存立させるプライドの問題である。

さてひるがえって、『小判一両』の浪人小森孫市は、なぜ死を選ばねばならなかったのか。私の見るところ、この作品は極めて西欧劇の古典的な構造と相似形の構造をもった作品のように思えてならない。人情話の体裁をとった思弁劇なのだ。

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