随談第111回 観劇偶談(その52)コクーン歌舞伎『四谷怪談』(つづき)

歌舞伎を歌舞伎たらしめているものが、つきつめれば、歌舞伎俳優の身体だ、とは当然、その身体とは技術を叩き込んで作り上げた身体ということになる。とすると、その場合の技術とは、さしあたり、いまある歌舞伎を演じるために必要な技術ということになる。いまある歌舞伎とは、いろいろな歴史的条件の中で伝承された技術によって演じうる歌舞伎、という意味になる。現在の歌舞伎俳優の身体をもって演じうるものが現在の歌舞伎、という至極当り前の話である。この辺から、議論はうっかりするといたちごっこに陥りかねない。

ところでこんどのコクーン歌舞伎『四谷怪談』北番では、下座を使わず朝比奈尚行による音楽をつかったことが、最大の実験ということになるだろう。下座を使う南番では、串田和美による演出がいかに手を加えようと、またお岩と伊右衛門の愛の限界点というところに劇の焦点をしぼりこもうと、下座を使う限り、役者たちは見についた歌舞伎のコンヴェンションの中で演技をくりひろげてゆくことができるから、芝居は見慣れたいつもの『四谷怪談』から大筋においては逸脱することなく進行してゆくかに見える。印象からいえば、串田演出が施し得たのは細部に限られているようにも見える。

だが下座を取り払ってしまえば、それに頼って芝居をするという「安心立命」の拠りどころがなくなる。もっともこういうことは、考えてみれば、明治の活歴だって、大正・昭和の新歌舞伎だって、その他各種さまざまな新作歌舞伎だって、それなりに試みたことだともいえる。南北の時代はいまより下座を使うのはずっと少なかったろうとは前からいわれていることだ。

一方で、国立劇場がかつてさかんに復活上演を試みたころ、当時健在だった勘弥とか八代目三津五郎といった世代の役者の体得していた引き出しが大いにものを言ったというとき、それは、ここでこういう下座を使おうというような、現場に根ざした実践主義的知識であったであろうことは容易に想像がつく。一面からいえば、下座の使い方ひとつがその場面が「芝居になる」かどうかの分かれ目になる、というようなことでもあったろう。

それやこれやの果てにいまの歌舞伎のコンヴェンションが成り立っているわけだが、こんどの北番『四谷怪談』で、下座をはずして、南北の書いたセリフを言うことを求められた歌舞伎俳優がどういう演技をするかということは、たしかに興味ではあった。また、下座の代わりにロック系の音楽を用いたといっても(正確にいえばこの表現は正しくないだろう)、下座のように細かくセリフひとつ、しぐさのきっかけひとつに音楽をつけるという方法論がまだない以上、多くの場面では、音楽もなにもない状態でセリフを言い、芝居をしなければならない状況になる。あるいは、ポトリポトリと雫の音のみが聞こえる、といった状況で演技をしなければならない。

少なくともこんどの成果を見る限りでは、役者の側は、おおむね事態をクリアーしていたように見受ける。串田氏の演出の可否については、当然、いろいろな評価があり得るだろうが、歌舞伎のコンヴェンションから可能な限り離れて、ひとつの可能性を指し示す成果を挙げたとだけは、少なくとも言えるだろう。

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