随談第111回 昭和20年代列伝(第一回)

新聞の死亡記事で懐かしい名前をちょくちょく見る。つい先日は、川崎徳次の死を伝えていた。見出しが元西鉄監督ということになるのは、こういう際の常識的な基準に拠ったまでだろうが、私にとっての記憶の中の川崎といえば、まだ1リーグ時代の巨人の主力投手時代の、将棋の駒みたいに四角い顔をした、たのもしいおじさんといった感じの姿である。投げるとき、左足をいったん後ろのほうに巻くようにしてから踏み込むのが特徴だった。たしかナックル・ボールというのを得意にしていた。

こちらが小学生だったせいでもあるが、たぶんそれだけではなくて、当時のプロ野球選手というのは、ずいぶん大人っぽかったような気がする。川崎が投げていた時代の巨人の選手でいえば、投手が藤本英雄(前にも書いたが完全試合第一号の中上のことである)に別所が1リーグ最後の年に南海ホークスから強引に引き抜かれてきたのと、中尾(このひとはエースナンバーの18をつけていた。ふしぎだが、巨人で18という背番号をつけた投手にダメ投手の例はないが、超一流投手もあまりいないような気がする)、それに川崎あたりが第一線で、ときに投手と捕手を兼業する多田文久三などという選手もいた。みなおじさんである。捕手が多田のほかに内堀、それに藤原鉄之助というのがファイターで人気があった。

内野は一塁が川上、二塁が千葉、三塁が山川喜作(ここがちょっと非力に思われていた)、ショートが白石。外野はレフトが平山で、このひとは塀際の魔術師といわれて、ホームランになりかかった大フライを塀に手をかけてジャンプして捕ってしまう名人だった。オッサンという仇名がついていたように、ブリキ職人かなにかのようないかついがやさしそうな顔をしていて、私は大好きだった。たしか数年前に死亡記事を見つけて切り抜いておいた。センターが有名な青田。この人は相手チームの捕手の前を突っ切ってバッターボックスに入るのが特徴だった。ライトが台湾出身の萩原。この人は前名を呉といっていた。プロ野球草創時代の有名な呉とは別人である。

こうしてみると、なにもこちらが子供でなくたって、若々しいという感じの選手はひとりもいない。川上と千葉と青田がスーパースターである。この年の巨人の監督は三原だったが、七月にシベリアの抑留から水原が帰ってきて、それがのちのふたりの確執の発端になる。巨人がぶっちぎりで優勝したにもかかわらず、VIPは阪神の藤村富美男が取った。前年、川上と青田が25本づつ打って作ったホームラン記録を一気に46本も打って大幅に破ったのだ。買ってもらった野球カルタの「ほ」の文句は「ホームラン別当藤村ともに打ち」というのだった。

当時『おもしろブック』という少年雑誌が大人気で、山川惣治の「少年王者」、小松崎茂の「大平原児」と共に人気の連載小説「恐怖の仮面」の主人公の三きょうだいの兄というのがプロ野球選手という設定で、別村弘という名前だった。別当と藤村と、もうひとりのホームラン打者大下弘の三人から取ったのはあきらかで、なぜか川上が無視されている。作者の久米元一は巨人嫌いだったのだろうか? (これから不定期に続けます。)

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