わが時代劇映画50選(その3)『紅顔の若武者・織田信長』河野寿一監督、東映1955

しばらく錦之助映画を続けることにしたい。戦後時代劇を語るとき、誰かひとり、と言えば、煎じ詰めれば錦之助、ということになると私は思っている。錦之助ほど、哀切なまでに、馬鹿の字がつくほど正直に、戦後の時代劇の動向と運命を共にした時代劇俳優はないと思うからだ。

錦之助が『笛吹童子』で売り出したとき、見る者を唸らせたのは、水もしたたる美少年ぶりだった。『里見八犬伝』では犬飼現八の役でありながら女装をする場面があった。子母沢寛の小説を映画化した『お坊主天狗』でも、これは設定がそうなっているのだが女姿で親の敵を討つという役だった。もっとも、東千代之介だってデビューは『雪之丞変化』だし、『蛇姫様』でも女形になるが(この人はこちこちしていて女姿はだめだった)、こういう路線は雷蔵でも橋蔵でもやらされているから、歌舞伎や舞踊の出身者の一度は辿らされるコースともいえる。

しかしそればかりでなく、錦之助の柄から見て、長谷川一夫の路線で売ろうという考えが会社にもあったようで、『怪談千鳥が淵』ではでれでれと優柔不断な役で和事の味があるとほめられたりした。しかし当の錦之助はそれがいやだったらしいことは、『揚羽の蝶』という自伝風の文章を新聞に連載した中で書いている。

『織田信長』は、錦之助がみずから進んで「ますらをぶり」の道を切り拓こうとした最初の作品ともいえる。山岡荘八の原作の映画化だが、題材は、大仏次郎が十一代目団十郎のために書いた『若き日の信長』と同じ、奇矯な行動が多くうつけと呼ばれた吉法師時代の信長が、大いなる魂を宿すが故に自らをもてあましながら成長してゆく姿を描くイニシエーション・ドラマで、それが錦之助自身の、周囲が自分に押し付けようとする型にはまった通念を打ち破ろうとする姿と重なり合って見えるところが、魅力と共感を感じさせたのだ。「童子もの」と呼ばれた、『笛吹童子』以来の絵のような美少年役からの脱皮という風に、当時それは理解されていた。

父の織田信秀に反発し、守役の平手政秀を唯一の理解者としながら、斉藤道三の娘濃姫を妻に迎えたのちも奇矯な行動を続けていた信長が、やがて政秀の諫死に翻然と悟り、舅道三と対面するとき、それまでと打って変った颯爽たる美丈夫に変貌するというのが、見せ場だった。錦之助は、後段の美丈夫ぶりと対照させるために、前段の汚れ役の扮装に凝りに凝って、いくらなんでも信長は乞食ではないのだからと批判されたりした。道三との対面の場では、大時代な台詞回しで、前段の怒鳴るようなセリフと対照させようとした。つまりほほえましいほど、のちの萬屋錦之介の原風景がここにあるのだが、それにもかかわらず、私にはこのむきになった錦之助がこよなくなつかしい。ここにもまた、錦之助の永遠の少年性を見るからである。

父信秀が柳永二郎、平手政秀が月形龍之介、斉藤道三が進藤英太郎と大物ぞろいの脇役陣だが、この政秀は月形としてもとりわけの逸品である。濃姫の高千穂ひづるもなかなか毅然として彼女の代表作に入るだろう。

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