随談第119回 観劇偶談(その57)

第114回の「今月の一押し」の中で、亀治郎の「火の見櫓」のお七の人形振りについて、人形振りというものの概念に変更を求めるもの、というような意味のことを書いたら、もう少し詳しく聞きたいという声があったと聞いた。じつは『演劇界』7月号に書いた五月の演舞場についての劇評の中でも触れているので、それを読んでもらえば、私の言う趣旨のおおよそは分るはずだが、しかし私としても、周辺的な意味合いのことも含めてもう少し書きたいこともあるので、いい機会だから書くことにしよう。

『演劇界』に書いた趣旨を敷衍すると、亀治郎のお七の獅子奮迅といった趣の働きを見ていると、お七の一心不乱が乗り移ったかのようで、人形振りというものが本来、文字通り「懸命」(つまり命懸け)という人間の姿、心の有様を表現するために考え出されたもののように思われてくる。つまり人形振りとは、人間が人形の真似をしてみせることに目的があるのではなく、人間のままでは表わしきれない人間の姿を、人間がみずから人形に憑依することによって表わそうとするためにあるのではないか、と思われてくるということを言ったのだった。

よく言われるように、人形振りは近代歌舞伎の中で永いこと、ケレンとして、一段下がった芸とされてきた。五代目・六代目の二代にわたる歌右衛門が、たとえば『金閣寺』の雪姫の爪先鼠でも、『廿四孝』奥庭の八重垣姫でも、決して人形振りで演じようとしなかったことが、人形振り=ケレン論の聖典のように受けとめられてきた。無論それに対する反論もないわけではなく、坂田藤十郎が八重垣姫を人形振りで演じたのなどその代表だろうし、ケレンに対する認識が様変わりした現在、むしろ歌右衛門のような意見の方が少数派に違いない。かえって希少価値が生じたかもしれないほどだ。

だが、亀治郎の『櫓のお七』を見て私が驚嘆しつつ思ったのは、そうした紋切り型の公式論のような「人形振り復権の論」などではない。抽象論として人形振りの復権を説くのなら机上でもできる。私はあくまで、目の前で人形振りのお七を演じる亀治郎を通じて、人間が人形になって演じるということの意味を考え(ざるを得なかっ)たのだ。私にそれを強いたのはあくまでも亀治郎の演じる人形振りのお七であって、翻って言えば、私にそういうことを考えさせた亀治郎という役者とは一体何なのか、ということでもある。

専門的な技術論として、亀治郎の人形振りがどの程度に巧いのか、または巧くないのかは、この際(少なくとも直接には)問うところではない。しかし私には、亀治郎のお七は、人形振りというものの本質を示すものであるように思われた。もっと言えば、人形振りというものの本質を演じてみせるものだった。

そういうことを考えさせてしまう人形振りの演技というものは、もしかすると褒められることではないのかもしれない。もっと、見るものをただうっとりとさせるようなものの方がいいのかもしれない。しかし少なくとも、これだけは言える。お七の人形振りを通して、亀治郎はまぎれもなく、お七という娘を生きていた。お七という娘の情念が、亀治郎という役者の身体を通して、わたしの目の前にあった、と。

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