随談第122回 観劇偶談(その58)今月の一押し(2)

染五郎の放駒を押す。候補としては、三越歌舞伎の『車曳』で梅王丸をかっちりと、勢いを失うことなく演じた猿弥がよかったし、敢闘賞的な意味で国立の鑑賞教室の『国性爺合戦』の甘輝でほおと思わせた信二郎という手もある。

松緑の和藤内も大分しまってきた。それに先月の『江戸の夕映』での好演(あれは本当によかった。あの堂前大吉という旗本の役は単なる狂言回しではなく、海老蔵のやった本田小六とコインの裏表のように対照され、じっと思い屈している小六の代わりに動き回ることによって芝居を進行させ、劇の奥行きを明らかにする。ある意味では小六よりも複雑な役なのだ、ということをちゃんと感じさせた松緑というものを見直させるに足る好演だったといって過言でない)に報いなかった埋め合わせの意味も合わせて松緑ということも考えられる。またまったく別な観点から、パロディの高踏的な面白さをのどかに、品位をもって演じ、別天地に遊ばせてくれた梅玉・魁春・時蔵による『二人夕霧』をとも思ったのだが、敢えて染五郎といくことにしたのには理屈がある。

甘さと客気。長吉という役を一言でいえば、この両面を兼備して活気よくつとめるのが身上だろう。覇気と甘さ。染五郎という役者のチャームを一言でいえばそれだろう。客気と覇気は、かなりの部分、重なり合う。すなわち、放駒長吉は市川染五郎とかなりの部分、重なり合う。べつに「地でいっている」というのではない。しかしいわゆる「仁にある」と敢えて言わないで、こういう言い方をしたくなるところに、染五郎の放駒のよさと魅力の根源がある。

放駒といえば五年ほど前、博多で見た海老蔵のが忘れがたい。そのことは『新世紀の歌舞伎俳優たち』という本に書いたが、その放駒は、客気というよりも、濡髪という「おとな」が受け容れている「分別」の中にひそんでいる「世間知というもののいやらしさ」に怒りをぶつけるといった趣きだった。つまり、その前に演じて大ブレイクのきっかけとなった助六がそうであったように、この放駒もまた「怒れる若者」であった。そういう、役の中にひそんでいる本質を実存的に「露わにしてしまう」ところに、少なくとも当時の、海老蔵という役者の根本があった。

染五郎の放駒も、濡髪の「おとなとしての部分」を感じて「きたない」と叫ぶ放駒である点では、海老蔵と重なり合う。しかし同時に、海老蔵にあって染五郎になく、染五郎にあって海老蔵にないものは何かといえば、一方が「破綻の美」であり、もう一方は「均衡の美」だろう。もちろんここでいう「美」とは、視覚で捕らえうる美ではない。それはたぶん、彼らふたりの人間性に通じ、役者としての資質に通じているだろう。それはやがて、歌舞伎用語としての「仁」にも通じているかもしれない。いや通じているに違いないのだが、いきなりそう言ってしまったのでは指の間からこぼれてしまう何かを感じさせる。

と、こういう「しちめんどくさい」ことを考えさせる放駒であるのは、染五郎のもつ現代性の故だが、しかしそれにも拘らず、現象としてのその舞台ぶりが、じつに「のほほん」とした放駒であるところが、じつは私が最も気に入っている所以なのである。

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