随談第131回 「自分探し」再論

サッカーの中田の引退の弁にあった「自分探し」という表現が、方々で話題の種になっているらしい。私も前々回の「随談」でそのことを書いた。

まさかこのブログが目に入ったとも思えないから、直接の対象にされたわけではないが、ある新聞のコラムに、ヒデ問題をめぐる諸家の意見で気になったことひとつ、という文章が載っていた。「自分探し」という言い方を青臭いと極めつける意見に首をかしげる。中田君はまだ二十代、青春真っ只中、ふつうの社会人として生き方を探す旅、大いに結構ではないか、という趣旨だった。つづけて、この行方定めず揺れ動くこの現代、自分の生き方に迷わぬ人間など信用できるか、と結んでいる。

もう、中田個人のことは離れよう。また、このコラムの筆者に難癖をつける気もない。ただ、近頃はやるこの「自分探し」という言葉に、あるいはこの言葉を流行させる風潮に、私は胡散臭いものを感じてしようがないのだ。

この前も書いたように、この言葉、教育の現場、方々の学校の案内書のたぐいにやたらに見かけるトレンディの用語なのである。高校の3年間、短大大学の2年間4年間に、適当な進路を見つけさせる、その進路指導に、この「自分探し」なる口当たりのいい言葉が定番として登場するのだ。(私もついこないだまで、そうした近辺に関係していたから、まんざら知らないではない。それで、つい、反吐が出るのかもしれない。)

コラム氏の言うように、自分の生き方に迷わない人間など、もちろん願い下げだ。人間、誰だって「自分」とは何者かわからぬまま、生きていく。いうなら、生涯「自分探し」の「旅」をする旅人だと言ったっていい。つまり「自分探し」とは、自分とは何かという、一生かかったってわからない命題なのであって、受験指導や就職指導で片付くような問題ではない筈なのだ。

人には添ってみよ、馬には乗ってみよ、という立派な進路指導の言葉が日本にはむかしからある。受験や就職に迷っている生徒や学生に、これ以上の言葉があろうとも思えない。そこへ「自分探し」などという、ムード本位の言葉ばかり美しいことを言うから、ますます迷いの道へ追いやることになる。自分が何をしたいのかわからないことに罪悪感を抱いて、フリーターがふえるのも当然ではないか。おじいちゃんの老眼鏡ではあるまいし、探したからといって、ハイ、ここにありました、というわけにはいかないのが、自分であり、人生というものではないのか。

別に教育問題の話をするつもりはない。つまり「自分探し」なる当世トレンディの言葉の実体は、こんな胡散臭いものでしかないのだ。もう一回だけ名前を出すが、わが中田選手が人生の一大事の決断をするのに、そんな、やすっぽい流行語を使ってもらいたくなかった、というの「ヒデ問題」についての私の意見である。

だって、あまりにも惜しいではないか。

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