わが時代劇映画50選(その5) 『笛吹童子』東映・1954、萩原遼監督

もう一回だけ錦之助、ということになれば、どうしたって『笛吹童子』を選ばないわけにはいかない。これこそ映画俳優中村錦之助の原点であり、時代劇映画の幾流かの重要な水脈に立つ、その意味からも原点の再確認ともいうべき作品である。

普通、時代劇映画の論者たちは、この種の映画を無視する。論ずるに足りないジャリ向き映画、というつもりだろう。だがそういうマッチョ趣味が、時代劇映画論を画一的にしてはいまいか、というのが、私のひそやかな異議申し立てである。

もちろん、ジャリ向け映画には違いない。当時六社あった映画製作会社が毎週二本づつ新作を封切りしていた戦後興隆期に、90分前後のA版プログラム・ピクチュアの添え物として、60分前後のB版をもっぱら子供向けシリーズ物として作るというのが、松竹など老舗に追いつき追い越すために新興の東映が考えた戦略である。シリーズにすれば、こどもは毎週見に来る。『笛吹童子』は三部作だった。これが大当たりして『里見八犬伝』『紅孔雀』は五部作で作られる。他社も追随する。そのための新スターが次々と開発される。中村錦之助は、東千代之介とともにその路線を切り開いた尖兵である。

しかしかつての林長二郎の映画処女作が『稚児の剣法』であったように、前髪をつけた美少年を主人公とする甘美なロマン性を生命とする作品は、時代劇映画のごくごく発祥の時期からあって、常にひとつの水脈を成していた。それを演じる二枚目スターの多くが歌舞伎界の出身者であるのは、歌舞伎の中にこれも古くからある若衆方という役柄から尾を引くジャンルだからというのが、私の考えである。女にもみまほしい美男、という常套句があったように、おそらくこの芸脈は、若衆歌舞伎に水源があるにちがいない。どこかに性の越境の匂いを秘めている。単に美男というだけではつとまらない。時代劇映画と歌舞伎の関係を考える上でも、童子物というのは、重要な鍵である。

そうした考証は措くとしても、この映画での錦之助の水もしたたる美しさと気品は格別だ。映画処女作の『ひよどり草紙』も同系の役だが、秘めた可能性を示すに過ぎない。『笛吹童子』で錦之助は映画俳優として開花したのだと私は考える。

『笛吹童子』と次の『紅孔雀』とはNHKのラジオドラマ「新諸国物語」シリーズの映画化である。作者の北村寿夫は、円地文子とともに小山内薫が晩年に発掘した新人のひとりで、早くからのラジオ作家だった。作としての格は、ラジオドラマ『笛吹童子』の方が実は高い。正義の白鳥党と悪のされこうべ党の時代をこえた永遠の闘争が、「新諸国物語」全体を貫くテーマである。ナイーヴな若者がされこうべ党の血筋であったりする。

戦国の世、丹波の領主丹羽修理亮の子の菊丸は、父を討たれ城を奪われながら、戦乱に明け暮れる世に疑問を感じ、笛を吹き、面作りとして生きようとする。そこに作者のモダニストとしての作意があるのだが、映画は必ずしもそれを充分には汲み取っていない。しかし錦之助の気韻がそれを補って余りある。また菊丸の兄の、東千代之介演じる萩丸が牢獄で被せられた髑髏の面が肉付きになったり、大友柳太朗の幻術師霧の小次郎の憂愁など、以後の時代劇から失われてゆくロマンの風趣が捨てがたい。

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