随談第136回 観劇偶談(その65)松井誠の芝居

明治座で「松井誠・劇団誠特別公演」というのを見た。ちょいとややこしいが、「松井誠公演」と「劇団誠公演」とをドッキングさせた公演ということであるらしい。「梅沢兄弟」に比べると、良し悪しとは別に、行き方にはあきらかに時代の違いが見える。梅沢兄弟の、よくも悪くも、バッチさがない。つまり、「3K」が排除された時代以後のセンスで統一されている。

「生きる博多人形」とみずから称する整った二枚目ぶりは、先達たちの例でいえば長谷川一夫と共通するものが多い。いわゆる「おつゆのたっぷりある」タイプで、水のしたたり方の「水量」とその水の「水質」が長谷川と共通するのである。あれで、流し目をいま以上に意識的に(いまだって相当意識的だが)たっぷりと「くれてやる」ようになれば、かつての長谷川一夫並みの人気を獲得するのも夢ではないかもしれない。

ところで、第二部の『新・四谷怪談』がなかなかよくできていて、いろいろ考えさせられることも多い。何しろ鶴屋南北のあの『四谷怪談』を、三部構成の一日の公演の内の第二部として、100分でやってしまうのである。もちろんそのためのアレンジがあるわけだが、『四谷怪談』というドラマの必要にして充分なポイントはほぼもらすことなく押さえてある。脚本=小池健三・吉村ゆう、お岩伊右衛門二役原案=岡本さとる、演出=吉村ゆう・松井誠とあるが、その手際はまことにたいしたものだ。

「地獄宿」と「三角屋敷」と小仏小平にかかわるくだりは省いてあるが、お袖と与茂七と直助の関係は押さえてある。(直助がお袖とじつの兄妹と知って死ぬことまでちゃんとやる。)小平が出ないから「隠亡堀」の戸板返しはお岩と宅悦になるが、これだって、もともと伊右衛門は宅悦に間男を勧めたのだから理屈はちゃんと合っている。

脚色者小池健三の言によれば、1991年に東京芸術劇場で上演したものを今度の上演時間に合わせて大幅に改定したものだという。15年前のその上演を見ていないのはこちらの手落ちといわなければならないが、吉村ゆうの演出上演台本と合わせて、原作の勘どころのつかみ方、それを松井誠の芝居としてアレンジする「目」の働かせ方は只者ではない。歌舞伎の『四谷怪談』に垣間見る人間心理やストーリイの荒唐無稽は、歌舞伎の約束事に助けられて成立しているが、人間心理を現代に納得させられるよう丁寧に追い、歌舞伎とは違う劇として成立させようと試みた、と小池は言う。

フームと思ったのは、おこも(つまりお菰さんである)という群集を一種のコロスとして登場させ、「聞いたか聞いたか」「はじめは終り、終りははじまり」といった巷の声、ひいては天の声として『マクベス』の魔女のような役割を果たさせる。Deed寿の音楽も、太鼓をパーカッション風に演奏して、単なる音楽の効果以上の効果を狙っている。おこもにせよ、太鼓の演奏にせよ、その衣装は時代劇の約束=通念にはまったく囚われていない。

この春に見た串田和美の演出による『四谷怪談』にも、共通する手法があったと思うが、いずれを支持するかはいろいろな意見があるにせよ、串田だ蜷川だといっているひまに、松井誠があっさりそれを超えているようにも見えなくもない。

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