随談第145回 今月の一押し(その5)

今月は大物を登場させる。秀山祭『寺子屋』における幸四郎・吉右衛門兄弟共演である。

兄弟の共演が久しく途絶えたままになっていて、いろいろな噂や穿ったジョークが飛び交っていたが、このたびの秀山祭で実現した。12年ぶりだそうだが、ともあれ結構なことである。この正月、仁木と男之助で、花道と本舞台ですれ違いのような共演があって、「取り逃がしたか、残念だあ」という男之助のセリフが、穿って取ればいろいろな意味を暗示しているようでもあったが、冗談はさておき、源蔵と松王丸のようにがっぷり四つに組み合うのは、絶えて久しき対面である。

人間同士のすることだから、それぞれの考え方や感情があって、もつれたりほぐれたりするのはある程度、避けられないが、大概、それぞれの話を聞いてみれば、それぞれにもっともな道理があることが普通のようだ。これは、われわれにも思い当たることである。要は、それぞれにすぐれたものを持った人たちが、時に手を取り合って、よきものを見せてくれることこそ肝要だということに、話は尽きる。すぐれた才能も能力も持っている人たちが、顔を合わせ力を合わせなくては、あまりにももったいないではないか。観客のためにも、自身のためにも、そしてなにより、歌舞伎のためにも。

さてその『寺子屋』である。果たして、よかった。いろいろな評価の仕方は、諸家それぞれにあるだろうが、今日の歌舞伎のひとつの高峰を築いたものであることは間違いない。吉右衛門の三役三演目、どれもよかったが、総合点としては『寺子屋』に一番高点がつくだろう。吉・幸はじめ、脇役の末々に至るまでよかったが、勝り劣りではなく、今度の成功のキーマンという意味で、幸四郎を挙げよう。

実を言うとどうかという思いがないでもなかった。これまで、とかく問題視されてきた、いわゆる狂言の底割りに通じかねないことを、こんどはほとんどやらない。首実検で、「でかした源蔵よく打った」と言いながら、小太郎の首の入った首桶の蓋を押さえる左手をわなわな、ときにはがたがたふるわせたり、といったことである。

幸四郎がなぜそういうことをしようとするのか、それはよくわかっている。首になったわが子と対面して、かねて覚悟の前とはいいながら、平静でいられる筈のない松王の胸中をいかに反映させるか、だ。それはわかる。だが現実の舞台成果として、その狙いが充分な成果をあげていたかといえば、簡単にウンとはいえなかった。

こんどは、わずかに、でかした源蔵よく打った、と言ったあと、玄蕃にやや顔をそむけ加減にして愁いの表情を見せるに留めている。(あれなら、玄蕃にも感づかれないだろう。)つまり幸四郎は、持論を撤回したわけではないのだ。ただその表現の仕方に、今まで以上に深く、適切な配慮があったのだ。

しかしそれより何より、わたしが感心したのは、役を大きく捕らえ、輪郭をきっちりと描き出したことによって、源蔵との対比が明確になり、ふたりの対決と和解、さらには共鳴という、この劇の根幹がくっきりと演じ出されたことである。

幸四郎は何といっても当代での時代物役者なのだ。

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