随談第147回 スポーツ随談(1)

久しぶりにスポーツ随談と行こう。七月の名古屋場所千秋楽の朝青龍・白鵬の一戦など、書きたいことはいろいろあったのだが、他に書くことが多く、つい機を逸してしまった。

それにしても、あの一戦は素晴らしかった。今場所のも、不振だった白鵬がせめても気力を籠めて取って悪くなかったが、この一戦に勝てば横綱という思いを横溢させて取った名古屋の一戦には及ばない。それは、ひとり白鵬の気力だけが理由ではない。最後、寄り倒そうとする白鵬を、体が崩れかかりながら朝青龍が必死に支えたとき、一瞬、両者が静止したように見えた。あの力感こそ、相撲以外にはありえない美しさである。久しぶりに、四つ相撲の醍醐味を味わった。

横綱審議会の委員長氏が、玉錦・双葉山の覇者交代の一戦を思い浮かべたと語っておられたが、むべなるかなと感服した。私の生まれる前の話だからその場の臨場感はわからないが、フィルムに残る映像は何度も見たことがある。やはり大相撲の末、双葉山が玉錦を寄り倒すのである。ふたりの風貌やタイプも朝青龍・白鵬に通じるところがある。

すでにさんざん言い尽くされたことを今ごろ言うのは、文字通り証文の出し遅れで間抜けな話だし、今場所の白鵬の崩れ方を見たいまでは、やはり協会が昇進見送りにしたのは正しかったということになってしまうのは一応仕方がないが、しかし一面、あのとき横綱になっていたら、今場所白鵬は全然違う相撲を取っていたかも知れない。それが人間というものである。

ひとつだけ言うべきだと思うのは、14日目の終わった時点で北の海理事長が、明日の相撲を見てからと言っていたのに、翌日の千秋楽になると、すでに昼の時点で昇進見送りという審判部の見解を容れてしまったことである。この間の理事長の発言の前後不揃いについて、何も説明がなかったのは不審である。

これは、結論に賛成か反対かとは別の話である。理事長にそんなつもりはないことは分っているが、しかし前日の理事長の発言を聞き、千秋楽の一戦を見た者が昇進を期待したのは至極当然のことだろう。協会の説明はそれに対する答えをすり抜けている。

しかしまあ、そのショックが本人の「つもり」とはうらはらに、不完全燃焼のような形で尾を引いて、今場所の意気上がらぬ相撲振りになったのは、白鵬に前から感じていた、目先の計算にこだわるあまりよくないイメージを、思い出さされてしまった。そういう青臭いけち臭さは卒業したかと見えていたが、まだそこまで行っていなかったのだろう。

今場所のよかったのは三賞の三人である。稀勢ノ里はまだ若すぎて相撲が定まらないが、いつだか赤大名みたいな柄の単衣物を羽織ってインタビュウに答えているのを見て、ホオと見直した。相撲取りのダンディズムはああでなければいけない。安美錦は現在数少ないプロフェッショナルを感じさせる力士だし、あのすらりと優美な体つきがむかしの相撲取りを思い出せてすばらしい。安馬も、最近の日本人力士にない、むかしの相撲を思わせるよさがある。むかしというのは、わたしの記憶の原風景にある、昭和20、30年代とデジャビュとしての10年代のことだ。

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