随談第150回 今月の一押し(その6)海老蔵・菊之助の『対面』

今月最大の成果が『元禄忠臣蔵』の吉右衛門の大石であることは論を俟たない。また別な意味で、批評として食指を動かしたくなるのは幸四郎の『髪結新三』だし、また、周囲の配役の弱体のために期待したほどの成果を挙げられなかった仁左衛門の勘平についても擁護論を書きたいが、意外性という意味からも「一押し」欄に最もふさわしいという観点から、海老蔵の五郎・菊之助の十郎という『曽我対面』を挙げよう。(『元禄忠臣蔵』については、今月末に出る『演劇界』12月号を見てください。)

とにかくユニークである。こんなにスリリングで面白い『対面』というものは、何度見たかも知れぬわが『対面』観劇史の中でも一番である。最高の『対面』というのではない。しかし、場内からこんなに笑いの起きる『対面』を見たのははじめてである。

そもそも、『対面』という芝居は、普通、笑い声が起こるような芝居ではない。すべての登場人物の一挙手一投足、セリフの一言一言に至るまで、すべてが約束事であり、すべてが「型」だといってよい。その意味で、これはドラマというよりむしろセレモニーである。

それにもかかわらず笑いが起きるのは、海老蔵の五郎が何とも自由な、自然さを感じさせるからである。荒事の、とくに五郎のセリフはやんちゃ坊主風のがたくさんあるが、それが、五郎のセリフでありながら、海老蔵自身が言っているかのように聞こえるのだ。

十郎に「コレ、必ず粗相のないように」と注意されて「合点だァ」と言う。「ただ何事も兄にまかせて」とたしなめられて「でェもー」と言う。「じっと辛抱しやいのう」となだめられて「いやだいやだ、堪忍袋の緒が切れた」と言う。こういったところで、観客の笑いさざめく声が三階席からも降ってくる。

肝心なのは、その笑いが、共鳴と親密感のミックスした100パーセント好意と好感の笑いであることである。海老蔵と五郎が一体化して、観客は、五郎のやんちゃぶりを通して海老蔵のやんちゃ坊主振りを楽しみ、許容し、共感し、面白がっている。

よく解説書に、荒事は七つ八つの子供の心で演じろと書いてある。しかし実際にこれまで見た誰のどんなに素敵な五郎にせよ、それを心得として演じていることは察しられても、実際に子供そのものの躍動感として感じられたという五郎は見た記憶がない。壮年の演者の立派な役者顔に、剥身の隈を取った五郎の顔が重なって、渾然とした風格が出来上がる。その見事な風格を、われわれは愛でたりほめたりしてきたのだった。

海老蔵の五郎との一体化というのは、それとは違う。もちろん海老蔵も、あの顔である、近ごろ頓にいやまさるあのますらをぶりの風格である、見たさまも風情も立派な五郎には違いはない。しかしあの三階席までも届かせる共鳴のオーラは、それとは別の発現体から出るものだ。

海老蔵のことばかり言って、菊之助のことはちっとも言わないではないかと言われそうである。そうではないのだ。規矩規範からいつはみ出すかとハラハラさせる海老蔵を、端正でエレガントな菊之助が支え続ける、実はそのバランスの絶妙さにこそ、場内の共鳴の根源があるのである。

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