世評高い「川の流れのように」や「悲しい酒」を否定する気はさらさらないが、それよりも昭和20年代、ひばり10代のころの歌について声を上げておきたい。
曲のよさ、歌詞のよさ、ひばり自身のよさ、三拍子そろった「ひばり三絶」とでもいうものを挙げるとすれば、私にいわせればすべてこの時期に集中する。すなわち、「東京キッド」「伊豆の踊子」「お針子ミミーの日曜日」の三曲である。
この内「東京キッド」だけはひばりはまだ子供である。このあいだ映画のテレビ放映があったので久しい対面をしたが、いかにもまだ幼い。ひばりの長い歌手人生の中で、もっとも美しく輝いているのは、それゆえにもしかすると世のひばり主義者と少し意見が違うかもしれないが、私の考えるひばり歌謡の頂点というのは、昭和27、8年から30年ごろまでの三、四年である。すなわち、ひばり18,9歳のお年頃前期である。
しかしその少し前の、ほんのちょっぴり、少女の色気が出染めたころというのも、それはそれで悪くない。「あの丘越えて」だの「ひばりの花売娘」「リンゴ追分」だのだが、「東京キッド」はそのちょうど端境期だろう。その、子供から少女に変り始める寸前の輝きが、この曲の曲想と幸運な出会いをしたのだ。
なんといっても、これは藤浦洸の作詞が素晴らしい。「右のポッケにゃ夢がある」まではだれでも思いつく。だがそのつぎに「左のポッケにゃチュウインガム」と続くのは天才の発想である。藤浦洸という人が天才かどうかは知らないが、少なくともこの一句を思いついた一瞬、この人は天才だったのだ。この時期にひばりが歌ったほかの歌、「私のボーイフレンド」だの「越後獅子の歌」だの「私は街の子」だの、どれもなつかしいが、「東京キッド」がその中で屹立するのは、この一句があればこそであり、この一句がひばりによく似合うからである。他の誰が歌っても、この一句の天才は輝かなかったろう。もちろん、リフレインとしての「空を見たけりゃビルの屋根、もぐりたくなりゃマンホール」もわるくないが、夢とチュウインガムを左右の「ポッケ」に入れ分ける発想の天才にはかなわない。
映画を見ると、花菱アチャコ扮する金持の実の父のもとをのがれて、しがない他人である川田晴久を慕う。川田晴久の貧乏人は情において悩むが、子供の将来を考え実の親のもとに返すという、歌舞伎で人気狂言になっている真山青果の『荒川の佐吉』や、阪妻以来時代劇の古典となっている『狐の呉れた赤ん坊』などと同工異曲のテーマである。
『荒川の佐吉』を見るたびに思うのは、この結論がほんとうに正解なのかどうかということだが、しかし庶民というものが本当に貧しかった時代(そう遠くない、ついこないだまでの過去である)においては、これが正解だと皆が思ったればこそ、こういう作品が身につまされる話として成立したのだろう。この映画が作られ、その主題歌として「東京キッド」が作られた昭和25年の時点にあって、ひばりがその子供を演じたのは、まさしく天の配剤だった。
そしてもうひとつ、ひばりがこののち得意にする、役の上の両性具有のおもしろさが、すでにここにあることである。