随談第155回 今月の一押し(7)サプライジングな弁慶

歌舞伎座は『先代萩』特に仁左衛門の八汐、三津五郎の沖の井に菊五郎の政岡という「竹の間」(もうひとつ、団十郎の仁木も近来での仁木である)、新橋演舞場は『勧進帳』の海老蔵弁慶、どっちにしようか三秒迷った挙句、この欄はなるべくサプライズのあるものにしたいので、二ヵ月連続はちょいと気が差すが、その破天荒な目覚しさを買って海老蔵にしよう。国立劇場の坂田藤十郎の「伏見撞木町」の大石も、上方の型による真山青果劇みたいでサプライジングだが、これはちょっと冗談が過ぎる。

「竹の間」も、特に仁左衛門がねちねちと意地の悪い御殿女中ぶりを自ら乗って、楽しんでやっているのが面白い。こういうのを見ると、この人もやっぱり上方役者なのだと改めて思う。二代目鴈治郎に教わったというのもさこそと思わされるが、東京の役者ではこうはいかない。三津五郎にしても、いまとなっては菊五郎にしても、考えてみれば立役三人の女形役による「竹の間」というのも珍しい(つまりサプライズだ)が、この配役が成功している。団十郎の仁木も親叔父まさりの仁木だし、これだけ面白い『先代萩』はそうはない。歌舞伎座ならではの大人の芝居である。

しかし日本シリーズで、大人の落合監督率いる中日が、永遠の少年めいた新庄に名を成さしめたように、「不思議の国の王子」海老蔵の憑依のごとき弁慶の前には、この「大人たちの先代萩」も光を失ってしまう。これまで幾度見たか知れない『勧進帳』だが、こんな『勧進帳』、こんな弁慶は見たことがないという意味では、これまで見た数々の素晴らしい弁慶たちも色褪せて見えるかのような錯覚に陥ってしまいそうだ。新聞評に、弁慶の荒ぶる魂が海老蔵の身体を纏ったようと書いたが、一言で言うならそれに尽きる。

七年前の、海老蔵大ブレークの第一ページとなった弁慶も凄かったが、あの時は、まだあきらかに未熟な弁慶だった。むしろその未熟さそのものが魅力だった。下手なのは誰の目にもわかったが、そのことを問う声はなかった。そもそも、当時の海老蔵自身が、弁慶というには若すぎた。つまりはじめから、ヤング版弁慶だったのである。

だが今度のは違う。いかに若くとも、すでに海老蔵は一個の大丈夫である。男の匂いがぷんぷんしている。これこそが弁慶だろうと思わせる。これまで見てきた名優たちの弁慶は、壮年の、弁慶よりも年齢のいった弁慶役者たちのみごとな役者ぶりや風格を通して見る弁慶だった。いわば年齢不詳の弁慶である。もちろん、歌舞伎の座頭役というものはそういうものであり、それで100パーセントいいのである。だが今度の海老蔵を見ると、そういう暗黙の約束事を超越している。そこが凄い。一陣の竜巻を見るのに似ている。

もうひと役の『千本桜』の忠信も余人の企て及ばない忠信だが、変てこというなら弁慶以上に変てこである。とりわけ本物の忠信で出てきたところはまるで病人である。猿之助に、あそこの忠信は病み上がりだと教わったそうだが、それを颯爽たる忠信の付け味として見せるに留めるのが丸本時代物というものである。狐言葉は義太夫を踏まえたセリフの拙さが露骨に出る。ところが、狐になってからそれを物の見事にひっくり返してしまう。まさに異能の役者である。

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