今月の海老蔵もたしかに凄い。たったひと役、それも夜の部の一番最後に出て来て、一日の芝居をさらってしまう概がある。
『紅葉狩』という狂言、じつはあまり好みでない。九代目團十郎というオジサンて、ああいうものを作って得意になっていたのかと思うと、明治という時代がいかにクダラナイか、そぞろ思い半ばに過ぎるような気がして、いやになってしまったこともあった。まあまあ、そう言ったものでもないさと自分で自分に言い聞かせて、思い直して見れば、それはまあ、いいところだってないわけではないことぐらい、もちろん知っているけれども。まあ、いずれにせよたいして面白いものではない。
ところが、こんどは実に面白かった。海老蔵の更科姫が、まずいかにも怪しげである。これはただごとではすまないぞ、と見ただけで思わせる。もちろん誰がやったって、あれが実は鬼女だということはわかるが、それはじつはストーリイ展開が始めて見た人にでも読めるように出来ているからで、しかも現代ではあの役は女形のものになってしまっているから、前シテの間はもっぱら神妙に踊る。海老蔵だって神妙に踊っているのだが、ただごとではないことを予感させるのが、それこそ余人をもっては替えがたい海老蔵ならではの面白さである。(それに今度は、妹の市川ぼたんが腰元役で出ているから、同じ顔をした姫と侍女が並んでいるのが、マグリットのだまし絵でも見ているようで一興である。)
やがて維茂と従者が眠りに落ちたのを見澄ますと、大股を開いて鬼女の正体を一瞬、見せる。ここが凄い。大股の開き方が度をはずれているのである。しかもそれが、ふつうの更科姫が90センチ開くところを1メートル以上も開くというような、見たさまだけのことに終わらないところに、海老蔵の異能の人たる所以がある。この仕種の意味が全然違ってしまうのだ。普通の更科姫は、ここで実は鬼女であることをちらりと見せるだけで、本当の変身は後シテになってから見せる。もちろん型だから海老蔵だってそうするのだが、しかし本当は、この大股を広げた一瞬に、更科姫は、いや海老蔵が、鬼になってしまうのである。われわれは、目の前で変身を見ることになる。同時に、これこそがドラマだと実感する。いや、じつにおもしろかった。もうこうなれば、後シテになって鬼女の姿になるのはつけたりみたいなものだ。
と、そんなに面白いのなら今月も、今月の一押しに選ぶかというと、わたしもこれでヘソが少し曲がっているから、そうはしない。同じ『紅葉狩』の中で、いまのひとくだりの後、素晴らしいものを見て、そちらに心を奪われてしまったのである。
鬼女の正体を見せて姫主従が引っ込んで舞台に凄愴の気がみなぎると、尾上右近の山神が登場する。これが素晴らしい。こちらは異能ではなく、することなすこと、すべてが格に入って力感が美しく溢れ出す。これぞ踊りだ、と思わずにはいられない。こういう山神は勘九郎時代の勘三郎以来か、いやもっと上かもしれない、などと思いをめぐらしたりしているうちに、一陣の山風のごとく、山神は去っていってしまう。ああもっと見たいと思わせるところが、憎い。というわけで、今月はこれが一押しである。