随談第160回 スポーツ随談(5)松坂騒動

松坂のレッドソックス入団交渉がまとまって、60億円という金額について破格という者、いや安い買い物をされたという者、どっちが正しいのか知らないが、安いですよという説をなす人たちの顔をテレビで見ていると、その共通点がなかなか面白い。

つまり、いかにも得意満面なのだ。アメリカ通の国際人であることの恍惚が顔にみなぎっている。60億という数字に仰天、思考停止状態で批判めいた俗論や常識論を吐いている、国外の事情にまで目の届かない田舎者どもを憫笑する得意の思いが、隠しようもなくあらわれている。ひとりふたりならず、これまで見たかぎりのこの説の論者が例外なく同じ人相をしているのだから、これは間違いようがない。

そこで考えざるを得ないのは、なぜ彼等はあんなに嬉しそうなのだろうということである。張本勲氏のようなコクスイ派が、自分には一銭も入らない話などしたくもないというのは、いろいろ恩惑はあるにせよ、差し引きすれば正直な言であることは間違いない。リクツで考えればその位もらったって当然だとは思っても、自分の手の届かないところで大金が飛び交っているのを知れば、クソオモシロクモナイと思うのは人情の自然である。

あのコクサイ派の人たちにしたって、60億のうち1円だって自分の財布に入ってくるわけではない。にもかかわらず、あの嬉しそうな顔わいやい。つまりは、コクサイ派エリートたることの恍惚という以外にはない。ボクちゃん、こんなにアタマイイのよ、というやつである。

思えば、鹿鳴館の昔から、いや征韓論、いや朝鮮出兵、いやもっと一足飛びに仏教伝来の昔から、コクサイ派知識人は、アタマの悪いコクスイ派の感情論を前にすると、ああいう顔をして、困リマシタネエ、アノヒトタチニハ、と憫笑したのだろう。仏教でも漢字でもその他なにやかや、文明の匂いのする文物は、みな海をわたって「舶来」したから(七福神だって舶来の神々だ)、日本人のDNAには日本文明誕生のときから舶来崇拝が織り込み済みなのだ。

イチローや松井への喝采は、世界のオザワ小沢征爾などに対する喝采と同根の性格を持っている。本場へ乗り込んで本場者を負かした同胞への賞賛の喝采である。日本人が一番尊敬に値すると考える英雄は、舶来のものを本場の人間と互角以上にわがものとした者のことなのだ。そう、この瞬間から、コクサイ派の顔の下からコクスイ派の顔があらわれる。怪人20面相の仮面の下から別の顔が現われるように。つまり、幕末の攘夷浪人が鹿鳴館のハイカラ紳士に変身したように、コクサイ派もコクスイ派も、もとを正せば同じものが、右に揺れるときはコクスイ派、左に揺れるときはコクサイ派になるだけの話であって、極めて日本的な心理運動なのである。

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