随談第167回 今月の一押し(その9)

今回は大家を登場させよう。歌舞伎座『勧進帳』の芝翫の義経である。理由は、その古典劇ならではの芸格の高さに尽きる。

まず最初の出。「山隠す」で花道七三で振り返り、反り身になって越し方を右、左と見やる。その画然たる間。身体の線が空間に描き出す描線とその速度がもたらす陶酔感。

つぎに「判官御手」で中啓を左手にとって、右手を弁慶に向かって差し出し、中啓を右に持ち替えて左でシオレる、その一連の仕草の美しさと品格。

もう、こういう格の高い芸は、いまやこの人以外には求められないかもしれない。雀右衛門にも、富十郎にも、坂田藤十郎にも、これはない。もちろん、それぞれのよさは別にあるにしても、この画然とした、たとえば安田靱彦の描く人物像の描線のように、一本の線が少しの無駄もなく、ああでもなく、こうでもなく、いまここにあるように以外にはあり得ないような、簡素化された一挙手一等足が空間に描き出す描線の美しさは、芝翫だけのものだ。決まり事を決まったとおりにする。ただそれだけのことが生み出す、至上の美。

いつぞや、芝翫の家の押入れから発見されたという古い映像を見たことがある。五世歌右衛門が見守る前で、少年というのもそぐわないほど幼い幼年時代の芝翫が、『越後獅子』の晒しの件を踊っている。傍らで三味線を弾いているのは、何と後の六世歌右衛門である。この芝翫少年がすばらしい。画然たる間と、幼いながらも紛れのない芸品の高さである。思えば、あの天才少年のときから、芝翫の芸の本質は変わっていないのだ。これは、真似の仕様のないことであり、同時に、昔の修業をした人は違うと思わざるを得ない。

芝翫の義経を見るために歌舞伎座へ行く。なんという、シンプルで、おしゃれな贅沢だろう。そういう贅沢を、この文を読んでくれた方々にお薦めしたい。

今月の歌舞伎座には、たとえば勘三郎の『鏡獅子』がある。吉右衛門の俊寛がある。幸四郎・吉右衛門・玉三郎の『金閣寺』がある。勘三郎と玉三郎の『喜撰』がある。どれもこれも、豊穣な逸品である。国立劇場に行けば、三津五郎が二役つとめる中でもとくに破戒坊主の弁長が素敵である。しかしその中から敢て芝翫の義経を挙げたのは、一期一会という意味を、もっとも深く思わせたのは、これを措いて他にないと思うからである。

一期一会といえば、今回の芝翫について、あそこであんなことをやるのはどうのといった類いの言をなす声も聞かないではない。もしかしたら私の見なかった日にそういうこともあったのかもしれない。しかし私は、所見日がどうしたこうしたという話には一切乗らないことにしている。芝居は一期一会である。もちろん人間のすることだから、そのときどきの出来不出来はあるだろう。しかし、よく自分の見た日はこうだったが誰それさんの見た日はああだったらしい、というようなことをあれこれ詮索して楽しむかのような人もいるが、その手の話も私は聞き流すことにしている。

確認や疑問をただすためなどの目的で、二度三度見直すということは、もちろんあるが、それはおのずから別の問題である。くりかえすが芝居は一期一会。たまたま見た日、かれがいかに演じ、われがそれをいかに見たかがすべてである。

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