今月の国立劇場で菊五郎が『梅初春五十三驛』の中で「岡崎の猫」をやっているのを見て、なつかしの入江たか子の化け猫映画に思いが馳せた。幸い、『怪猫岡崎騒動』と『怪猫有馬御殿』をビデオに取ってある。昭和30年前後、入江たか子が怪猫映画でカムバックした時は、往年の大スターも落ちぶれたものという風な受けとめ方がされたものだが、彼女のお陰で、私などは辛うじて、映画というメディアを通じ「化け猫の怪談」という「民俗伝承」の末端に触れることができたことになる。
「有馬の猫」と「鍋島の猫」が『加賀見山』などと同じお家狂言なのに対し、「岡崎」は唐猫の子が日本にわたってきて古寺に棲みつくのが、音羽屋の家の芸にもなった基本のモチーフである。今度の『五十三駅』もそうだが、道中物と結びついているのも郷愁を誘うなつかしさがある。昨秋演舞場で獅童がやった森の石松の大元である戦前の片岡千恵蔵の映画『続・清水港』でも、退治した化け猫の皮でコントラバスみたいに大きな三味線を作るというギャグがあった。
「有馬の猫」は、昭和38年7月に梅幸が歌舞伎座で出していて、そのときの筋書に有馬の殿様の末裔で作家の有馬頼義が、中学生のころ同級生の伊達君と、僕の家には猫騒動がある、僕の家にだって伊達騒動があると自慢し合ったという随筆を書いている。化かされの女中の吹き替えを坂東八重之助がやったのと、有馬家の抱え相撲の小野川と雷電の対決を勘弥と松緑でやったのが昔の芝居らしかった。
映画の『岡崎騒動』はこうした伝承とは無関係の脚色で、御家狂言風に作ってある。むしろ『有馬御殿』の方が、『加賀見山』丸取りの設定で、お初に当る女中のお仲(阿井美千子がまだ若くて清楚だ)だの、敵役の局の岩波(金剛麗子という恐い婆役で当時よく見た顔だった)だの、黙阿弥の芝居と共通の役名が残されている。入江たか子の役は、「たき」という側室で、尾上と同じく町家の出(八百屋の娘なので腐った野菜の匂いがする、などと嫌味を言われたりする)で武芸が出来ないために辱しめを受ける。
監督は『有馬御殿』が荒井良平、『岡崎騒動』が加戸敏。『有馬御殿』は上演時間1時間足らずの短尺物で、チャチな造りだが(杉山昌三九の殿様と坂東好太郎の役はたぶん兄弟なのだろうが説明がない、など疎漏で矛盾点も多い)、かえっていかにもB級(いやC級か)映画の面白さがあって気に入っている。試合の場と化かされの場面では、下座の囃子を急テンポにアレンジするなど、歌舞伎ネタということをわざと見せたりする遊びがある。
もっとも入江たか子の怪猫の貫録と凄みを見るためには、『岡崎騒動』の方が上だろう。王朝風の舞姿で猫になるところに、わずかに岡崎の猫の伝承の匂いがあるわけだ。黄金分割風の正統派美女だから愛嬌はないが、見立てと品があるのが絶対的な強みである。戦前化け猫女優として鳴らした鈴木澄子が、戦後月形龍之介の『水戸黄門』で怪猫をやったのも見たが、美女が化け猫に変化するという不気味さで入江たか子がまさっていた。
入江たか子の怪猫もので一番こわくて、映画としても出来がよかったと思うのは『怪猫逢魔ケ辻』だが、残念ながら再見の機会に恵まれない。どなたか、ご教示を乞いたい。