映画俳優大谷友右衛門の主演作をもうひとつ挙げたい。成瀬巳喜男監督の『お国と五平』、『青春銭形平次』の前年の作だ。この稿を書くために改めて見直して、フームと感心した。成瀬巳喜男作品としても、映画俳優大谷友右衛門としても。通念的なジャンル分けからいけば文芸物であって時代劇には数えないかもしれないが、それを言うなら『青春銭形平次』だっていわゆる時代劇ではない。要は、映画俳優友右衛門が比較的成功を収めたのは非・時代劇であり、定番物の時代劇でうまくいかなかった理由もこの作品の中に現れている。
いうまでもなく谷崎潤一郎の有名戯曲の映画化だが、いまも歌舞伎の上演レパートリイの一角を占めて時折舞台にかかるのと見比べても、映画作品として優にその価値を主張している。お国が木暮実千代、友右衛門は五平、題名通りこの二人の仇討の旅の有り様を諄々と描いてゆく。脚本の映画的処理は当然なされているが、その差し引きの具合が巧い。
たとえば、友之丞に討たれるお国の夫伊織(田崎潤がやっている)を回想の中でワンシーンだけ出しながら、この人物がお国の中で占めている比重というものが鮮明にわかる。三好栄子にお国の母と、お国が五平とはじめて体を求め合った雨の辻堂で出会う巡礼婆の二役をさせるとか、渡し舟を待つ間の茶店で出会った顔馴染みの富山の薬売り(鳥羽陽之助)から、伊織の碁仲間だった人物が女敵討ちをしてその評判のために、国元ではお国の仇討のことは忘れられたようになっていることを知る、とか。なるほど、こうしたことをきめ細かく描くのは映画の方が向いているのは確かだが、それだけに終わるのではなく、そのことがお国を追い詰め、逆に五平に明確な目的を確信させてゆく、その彫り込み方が的確である。友之丞は山村聡だが、大家になった晩年、『華麗なる一族』で大物実業家になったりしたのよりずっといい。「臆病者の哲学」を説く目の色が出色だ。結ばれたはずのお国と五平の、立場と思惑の違いをあぶり出すのに有効な説得力となっている。
木暮実千代もこのころが脂の乗り盛りであったことがよくわかる。(かの『雪夫人絵図』が前々年である。)のちに歌舞伎座で若き日の富十郎の五平、猿之助の友之丞、観世栄夫の演出でやっているが、映画人として当然ながらこの映画の方がいい。五平と主従として泊まりを重ねながら旅を続けてゆく中でのお国の悶えぶりは、五平のまめまめしく仕えながらのもじもじぶりや煩悶とともに、木暮・友右衛門ともに出色といっていい。
(そうした一日、泊まった宿で、つれづれをなぐさめるために人形芝居の催しがあって『新口村』を見ることになる。それがまた、梅川と忠兵衛に自分たちを重ね合わせて悩ましい思いを増すことになるわけだが、何とここで、当時の文楽三ツ和会の特別出演で、源太夫・市治郎に紋十郎が梅川、先代勘十郎が忠兵衛を遣っている!)
『佐々木小次郎』は別として(なんとか見る機会を得たいものだ)、現代物では溝口謙二の『噂の女』のアプレゲールの無責任な医者の役と、時代物ではこの五平とが、映画俳優大谷友右衛門としての最も良きものではあるまいか、というのがいまのところ(まだ見ていない、おそらく見る機会もないものも沢山ある)の私の考えである。高田浩吉の『お役者小僧』で、「男の花道」の歌右衛門をやったり、なつかしいものも多々あるけれど。