随談第173回 観劇偶談(その81)『コペンハーゲン』

新国立劇場の『コペンハーゲン』を見る。きわめて面白く見た。敢えて古語(?)を使えば「新劇」にジャンル分けされる類いの芝居で久しぶりによきものを見たというのが、一言評である。ボーアにハイゼンベルクという実在も実在、二〇世紀の原子物理学の最高峰(みたいな存在であるらしい)が、ボーア夫人を交えて三人だけでやたらに難しい議論をするだけの芝居なのだが、ちっとも難解に感じない。量子力学の用語だの、われわれには馴染みのない学者たちの名前だのがずらずら出てくるのだから、(われわれが何代目のナニエモンだのカニサブロウだのというのを芝居に興味のない人が聞くのと同じわけだ。なお、パンフレットの鵜山仁氏と白井晃氏の対談の中で、それのことを「ツラネ」といっているのは「言い立て」と言うべきだろう)ちんぷんかんぷんのところが沢山ある筈なのだが、それをも含めて、きちんとこちらの耳にとどいてくる。つまりその言葉の意味自体はわからなくとも、どういう問題についてどういう意味のことを議論しているのか、さらには、それがどういうことを象徴しているのかは、じつに明瞭にわかるからだ。これほど、すこしも無理も苦痛もなく、セリフに聞き入った芝居というのはついぞなかったことだ。

三人の出演者、村井国夫と新井純のボーア夫妻、今井朋彦のハイゼンベルク(この人、評判のわりにいままでいいと思ったことがなかったが、今度はいい。はじめて、なるほど評判だけのことはあるわいと納得した)の好演による面ももちろんあるが、しかし根本的には、作そのものがよくできているからだ。

マイケル・フレインという作者は、『うら騒ぎ』というのを前に見たことがあるだけだが、そのときはなかなか巧妙な手だれの作者らしいという印象だった。そこから類推して、たぶんこの『コペンハーゲン』もそういうつくりの芝居なのかもしれない。しかしそのカラクリの操作が、『うら騒ぎ』よりもはるかにうまくできてしまった、ということなのかもしれない。その意味では、かの『アマデウス』と似ている。どちらも、書いているうちに、伊豆の夜叉王ではないが技芸神に入ってしまった結果、きわめて高度なウェルメイド・プレイが出来てしまったのに違いない。

なにかを主張しようとか、世に訴えようとかいうマジメさが、おそらくこの作者にはない。しかしここで扱われている問題が、いかに重要で知的で万人にインタレスティングな問題であるかは充分に承知している。そういう、無目的性というか、脱イデオロギイ性というか、不マジメなマジメさというか、使命感のない使命感というか、とにかく力が抜けて力んでいないスイングから超特大ホームランが生まれたような、これはそういう作品なのだ。

(蛇足:新井純という女優さん、すくなくともこの芝居に関するかぎりでは、富司純子さんに雰囲気が似てますね。)

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