今月も大物の登場である。国立劇場の脚本入選作『蓮絲恋慕曼荼羅』の猿之助一門連中をという気もないではないが(右近の継母のやや漫画チックな敵役ぶりなど、ちょっと見直してもいいかと思ったし、誰彼なしの集団として押す手もあるが)、一押しにかこつけてちょっと幸四郎ミニ論をやってみたくもあるので、幸四郎を挙げることにする。知盛ではなく、横川の覚範じつは能登守教経の方である。
あの覚範はじつにすばらしい。大きくて、悪が利いている上に色気がある。白狐を踏んまえてせり上がってきたところなど、ゆらりゆらりとセリが揺れているかと思うほどだ。まさに、ヨオ高麗屋だ。幸四郎をつかまえて覚範役者だなどといったら、ヘルメットでもかぶらなければ歌舞伎座のロビーを歩けなくなりそうだが、いや、皮肉ではなく(ファンの方々、ここのところをよく心して読んでください)役の軽重を云々するのでもなく、あの覚範は歌舞伎役者幸四郎の持てるものが最もすなおに発露したものであろうと思うのだ。
おそらくあの覚範を勤めるのに、幸四郎はむずかしい理屈はなにも考えなかっただろう。考えたとすれば「格」という一字だけだろう。それに覚範という役は、先人たちのいろいろな手垢があまりついていない役だ。そういう役のとき、幸四郎は概していいのである。
実悪役者、だと思う。しかし仁木のような手垢がたくさんついた役だと、幸四郎はどうも考えすぎてしまうらしい。それについ、見るこちらにも、いろいろなイメージがつきまとう。前にこの欄で、幸四郎にすすめたい役として、『五大力』(『三五大切』ではなく『恋緘(こいのふうじめ)』の方だ)の薩摩源五兵衛と『梅雨小袖昔八丈』(『髪結新三』としてではなく、通し狂言としてだ)の弥太五郎源七を挙げたが、どちらにも共通しているのは、まだ誰も仕出かしていない役だということである。ということはつまり、幸四郎に勝る仁の持主がざらにはいない役だということである。
『恋緘』の源五兵衛は、『三五大切』よりも一倍時代に、がちっと行ける役だ。弥太五郎だって、『髪結新三』のイメージで見るから脇の役じみるが、通しでやれば、新三はあの閻魔堂橋で殺されてしまうのだから、後半は弥太五郎の芝居なのだ。どちらも、いま他の誰がやったって、幸四郎にまさる源五兵衛も弥太五郎源七もいない筈だ。
本当に高麗屋に考えてもらえないだろうか。幸四郎のためだけではない。歌舞伎界のためでもある。これらの役で幸四郎が一発本塁打を放ったなら、歌舞伎界のために大きな畑を開拓したことになる筈だ。仮に道玄だの筆幸だので好評を得たところで、これらの役で未踏の沃野を開拓するのに比べれば、後に残る功は知れたものではないか。
知盛も悪くはない。思うにこの人は、時代物としては二段目物役者なのだろう。丈高く、高潔な悲壮感のあるのが二段目物の主人公の属性とすれば、幸四郎がその有力な有資格者であることは間違いない。(『道明寺』の菅丞相をやってみるのも一案ではある。)だが「型」の決まった役だと、この人はなぜか余分なものがはみ出してしまうことが多い。その余分をも打って一丸として、未踏の役にぶつける方が得策ではないか?
それにつけても、覚範はよかった!