中村錦之助という名前には、その字を見、音(おん)を聞くだけでも私には甦ってくるものがたくさんあるが、前に「時代劇映画50選」にも書いたように、初代錦之助について私は世評とは少し違う考えを持っている。のちに萬屋錦之介という名前になったりしてからよりも、この人の本質もすぐれた仕事もむしろ若いころにあり、高名な『宮本武蔵』あたりから以降の錦之助には、自身で自身の仁を変えようとして苦闘を続けながら、ついにその外へ出ることのできなかった、ある種の痛ましさを覚える。若き日の『笛吹童子』などで見せた秀麗な二枚目としての美しさに仁と柄の根本があり、そこから出発して『ゆうれい船』を経て『宮本武蔵』にいたる成長と成熟のなかに、その最も余人にないすぐれた資質と成果があらわれている、というのが私の考えである。映画クロウトの間に評価の高い『瞼の母』にしてもその延長線から出るものではないだろう。永遠の少年の魂に宿る哀愁。初代錦之助は、まぎれもなく、人の心を動かす役者であった。ここで映画俳優中村錦之助論をはじめるつもりはないが、こんどの新・錦之助のことを考えるに当って、このことはまったく無縁の問題でもないように思うので、ちょいと「こだわって」おきたい。
新しい錦之助が今月つとめる四つの役についていえば、一番は放駒、二番が虎蔵、ついで与五郎、だいぶ離れて四番目が磯部侯ということになる。放駒は、前回書いたように、幕切れの美しさが余人にないものがあったのに興味を感じたので、それを非凡とみて第一位にしたのだが、全体として見ればすこしおっとりしてもう少し、生意気とか激しさとか、鋭いものを秘めた感じがほしい。これは演技よりむしろ仁に関わることであって、だから虎蔵の方を上位と見る人がいても不思議はない。亡父四代目時蔵に、単に見たさまだけでなくそっくりである。役者の仁としてこのあたりが父と重なり合う、本来的な役どころなのだろう。 与五郎はむしろ努力賞としての評価である。この人の人としての素直さがストレートなぐらいよく出ていて、それがおのずと与五郎という役に通じているのがポイントとなる。磯部侯はこの際、あえて評なしとしよう。
さて問題は、この新・錦之助が、どのあたりを自分の役どころの本領と見極めるかである。今度の虎蔵に見るように、父の四代目時蔵と共通する仁を持っていることは疑いない。その点では、兄の現・時蔵よりも色濃いものを感じさせる。しかし柄からいえば、女形は所詮加役として以外には考えにくい。いまの年齢・立場からいっても、いろいろな役が回ってくることも想像される。大事なことは、そのときに、さまざまな役をこなしつつも、単なる便利屋にならず、どれだけ「本領」を持つ役者としてのひと筋のものを貫けるかということだろう。
さっき、今度の磯部侯をあえて評なしといったが、あそこには新・錦之助としての「自分の色」が、私には見えなかったからである。ある意味では、時に拙い役があってもいいのだ。その代わりには、余人にない何ものかをもって光を放つ役者でなければならない。錦之助の名にふさわしい第一歩として、虎蔵以上に、放駒の幕切れの輝きを敢えて第一位に挙げた理由もそこにある。