随談第191回 今月の歌舞伎から(7)海老蔵の与三郎について

團菊祭の昼の部を見たのは連休中の一日でもあったが、ロビーは溢れ返るほどの混雑だった。人の波でふくれ上がるような感じで、これほどの活況というのは、最近ではちょっと思い出せない。團十郎ひさびさの「勧進帳」ということもあるだろうが、おそらくまず、海老蔵の与三郎が最大のお目当てに違いない。なにはともあれ、ロビーを歩いていてついこちらも煽られそうになるこういう活気は、悪いものではない。

おそらく今度も、結果は賛否両論かまびすしいに違いない。私はあまり他の方々の批評を丹念に渉猟する方ではないが、想像するだに、どんなことが言われ、どんな賞賛と、どんな批判が交わされるか、わかるような気がする。結局、要は「それ」を受け入れるか否かにかかるのだ。

買いか、買いでないか、ずばり一言でいうなら、私は買いである。理由はひとつ、紛れもない与三郎がそこにいた、からである。

私の限られた観劇経験だけからいっても、これまでに見たどの与三郎に照らしてみても、この与三郎は変てこである。ツボはほとんどはずれる。セリフのトーンは不安定だ。ぶきっチョかと思うと、羽織落しが案外すらりといったりする。しかしそれは、たまたまその日はうまくいったまでであって、別の日に見たら、とんでもないほどもそもそやっているかも知れない・・・といったことを数え立てていったら、たちまち両手の指が足りなくなりそうだ。

では下手か、というと、そうとも言えない。まず最大の難点がセリフにあることは衆目の見るところだろうが、変なところを伸ばして言ったり、ツボにはまらなかったり、音程が不安定だったりするのが、普通の意味で「下手」というのと、どうも違うらしい。もう時効だと思うから言ってしまうが、お父さんの海老蔵時代の与三郎は、もうすこし普通の意味で、「下手」だった。当時海老蔵といえば、セリフに難がある、という批評が判で捺したようにされたものだった。セリフの難ばかり言わないでもう少し別のことを批評すべきだ、などと利いた風なことを若気のいたりで書いたこともあったほどだ。

少なくとも、当代海老蔵はそういう意味での「下手」とは違う。私の見るに、海老蔵のあのセリフの言い方、あのやり方は、ある計算があってしていることと察しられる。いうなれば確信犯である。

ただそこから先が、私にも読めないのだが、その計算がどの程度的中し、どの程度的を射はずしているのか、問題はそこである。レッドソックスの松坂もこないだ中だいぶ荒れていたが、剛球投手の球がしばしばうわずったり、すっぽ抜けたりするように、海老蔵も、確信犯的に計算してやったことが、すっぽ抜けたりうわずったり、かなりしているのではないかと察しられる。困るのは、その率がどのぐらいなのか、私にも見当がつかないことだ。

言えるのは、この与三郎は、これまで見てきたどの与三郎とも違う与三郎だということ。それにもかかわらず、これはまぎれもない与三郎だ、ということである。そうである以上、これはやはり、「買い」ではないかということである。

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