随談第192回 今月の歌舞伎から(8)吉右衛門の四役奮闘

この月の新橋演舞場は去年に引き続き吉右衛門の奮闘する公演だが、これが吉例・恒例となってゆくかどうか、なるとすればどういう形があらまほしいか、それが問われる、また問われねばならないのが、今回以降だろう。

そこで吉右衛門の勤めるのは、昼の部の主軸として『鬼平犯科帳』、歌昇以下の後進につき合う感じで『釣女』の醜女、夜の部のメインの『法界坊』、一番目物として福助のお三輪に鱶七でつき合うという四役。ほぼ出ずっぱりに近い大奮闘であることには違いないとして、気になる節々もないでもない。

まずこの公演の狙いとして、単なる吉右衛門奮闘公演ではなく、中堅・若手の後輩たちを引き具して、彼らにも場を与え、育てていこうという構想と姿勢のもと、「吉右衛門一座」といった趣きが、去年今年、二回の座組みと演目にも見て取れる。それは大いに賛同したいところだが、一方、そのための無理や不具合(この言葉、IT関係の用語として俄かに見かけるようになったが、なんとなく「生煮え」で、それこそ「不具合」なような一方、なにかと便利に応用できそうな言葉でもある)も垣間見られる。

昼の部の第一に染五郎が『鳴神』を出す。染五郎にしてみれば、二世左團次の系列外で大歌舞伎に導入したともいえる祖父白鸚ゆかりの演目として、抱負も意欲も多々あるのはよくわかる。絶間姫が鳴神を破戒堕落させる場面をあっさり簡略にすませた演出上の疑問、とりわけ前段の染五郎の仁や柄が役に添い切らないことなど、不満もないわけではないが、好印象をもてる舞台であったことは確かで、まずまずの成果と意義はあったといえる。

染五郎はもうひとつ、『法界坊』で野分姫の上に、『双面』では法界坊の霊も勤める。染五郎の意欲はいまは措こう。しかしここでも、単独の舞踊劇として出すならともかく、通し狂言の最終幕として出す限り、あのハンサムボーイの染五郎が法界坊の霊になって凄んでみせても、お嬢吉三のセリフではないが効かぬ辛子となんとやらみたいで、あまり面白くない。吉右衛門が楽をしたくて半不精を決め込んだわけではないのは分かっているが、それまでと『双面』が別々の狂言のように、色も重みも違ってしまったことは否めない。

似たようなことがもうひとつある。福助のお三輪で『妹背山』の「御殿」を出しながら、姫戻りからで、せっかくの吉右衛門の鱶七が、金輪五郎としてお三輪を刺しに出てくるだけしか出番がない。姫戻りから出すというやり方は以前からあることには相違ないが、歌舞伎の「常識」を観客に期待できた昔は知らず、『寺子屋』を首実検もすんで千代の戻りから出すようなもので、筋がわかるのわからぬの以上に、ほかならぬ吉右衛門が鱶七をやりながら興味を半減させるものだ。(かつて玉三郎のお三輪で、姫戻りから出して勘弥が求女と金輪五郎の二役をやったりしたのとは、似て非なるものである。)

これも、別に吉右衛門が、不精をしたのでも芸の出し惜しみをしたのでも、多分ないだろう。鬼平はなかなか面白かったし、醜女も悪ふざけせず、なかなか色っぽくってカワイカッタ(!)し、半端な出し方とはいえ金輪五郎もさすがだったし、法界坊も素敵だった。だが少なくとも夜の部、何か不完全燃焼の感が残ったのも事実である。

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