随談第195回 観劇偶談(その88)『風林火山』の亀治郎は誤演か?

亀治郎が相当な入れ込み方で取り組むという前評判を聞いていたので、大河ドラマの『風林火山』を気をつけて見ているのだが、正直なところ、少々うんざりしてきた。作者のはめこんだフィクションとノンフィクションの部分の噛み合い方がいつまでもしっくりしないので、いらいらしてくる。そもそも機知縦横であるべき山本勘助が力んでばかりいて、一向に頭がよさそうに思えない。熱演は結構だが、熱演ぶりがいつも同じで、変化というものが感じられないのがうざったいのだ。

しかし勘助批評をするのが目的ではない。勘助と、晴信の芝居の仕方がまるで水と油なのが、話題になっているらしい。新聞の投稿欄に、晴信役の歌舞伎役者の演技が歌舞伎調一点張りで他が好演ぞろいの中で一人だけ浮いている。これまでにも歌舞伎俳優の出演はあったが、こんなに極端なのははじめてだ、これからでも修正できないか、というのをついこの間読んだ。その一方、気品があってすばらしい、といったのも載っているが、私が興味を感じるのは、こういう両極端の批評というものが、どういうところから生じるのかということである。当然ながら、どちらが正しいという問題ではない。勘助役にしても、私の感想とは裏腹に、好演と評価する向きも、じつは少なくないらしいことも知っている。

少し大風呂敷を広げれば、この問題は、歌舞伎だけでなく日本のほとんどすべての演劇から映画テレビまで、要するに芝居の演技というもの全般に関わる問題をはらんでいる。誰それの演技がいいとか悪いとか、巧いとか拙いとか、(私ももちろんその一員だが)批評家から一般ファンまで、日ごろ気軽に「批評」をするが、その「いい」とか「悪い」とか、「巧い」とか「下手」とかいう評価は、何に基づいてしているのか、ということである。

いうまでもないが、亀治郎は一貫して、新歌舞伎のイキで押し通している。綺堂や青果のセリフを言うイキでセリフを言い、それに基づいた芝居をしている。おそらくこれは、亀治郎の計算であるに違いない。つまり、亀治郎はそのように脚本を読み、そのように演技プランを立てたのだ。ひとつの見識として、それは理解できる。

一方勘助役の内野聖陽も、当然、彼なりの計算、彼なりの演技観によってやっているにちがいない。文学座で学んだ彼として、その計算・演技観はそれ相当のものを背負っている筈である。あらわれたところへの賛否は別として、もちろんこれも理解できる。すると、それをなんらかの形で統一を図るのが演出の役目ということになるが、ではその演出者は何を基に統一するのかといえば、自身の価値判断以外にはないだろう。三者三様である。

『歌舞伎百年百話』にも書いたが、「團菊」の死んだ1903年に、『江戸城明渡』という新作をめぐって、当時の最先端の演劇であった新派から歌舞伎へ「立会い演劇会」を申し込むという事件があった。歌舞伎側はそのとき「相手にせず」としてやりすごしたのだが、その論点は、歌舞伎の約束事への挑戦・打破というところにあった。それは、衣裳の着付けや長袴の捌き方から、セリフ・仕草、はては演技観・演劇観にいたるまで、あらゆる問題をはらんでいた筈だ。テレビドラマという、ターミナル駅の雑踏のようなさまざまな価値観が雑多に入れ混じる場で起こったこの問題は、いわば近代百年の縮図ともいえる。

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