随談第199回 観劇偶談(その91)もうひとつの一押し

ちょっぴり地味な話題だが、ベテラン勢のなかに一押し候補がまだいることを書いておきたい。まず、染五郎の『船弁慶』で間狂言をつとめる舟長波太夫の東蔵である。

妙なことを言い出すようだが、だいたい私はあの役が好きで、まさか本当にやるわけではないが、ああいう役ならちょっとやってみたいような気がする。狂言全体の中で占めるあの役のスタンスにしゃれたエスプリがあって、ベテランなら誰がつとめてもいいというわけにはいかない。一見能楽の『船弁慶』を曲もなく歌舞伎に仕立て直したみたいな『船弁慶』だが、ふしぎなことに能楽の場合は、狂言方のつとめる同じ役でありながら、歌舞伎の『船弁慶』で感じるほどの感興は覚えない。思うに、能からの直訳のようで、むしろああいう役に、歌舞伎ならではの遊びがあるからだろう。そこに、この役には、意外に人を選ぶ、見かけによらない気難しさがあるのだ。

仁と柄も必要だが、シテ役との年齢その他のバランスも欠かせない。なまじ大立者が出ても、重たるくなったのでは逆効果だし、不可欠なのはすっきりとした輕みと、芸の味だが、梅幸における勘弥とか、富十郎および勘三郎における宗十郎、あるいは又五郎など、とりわけ、そのバランスの絶妙さによって印象に残っている。

今回の、染五郎における東蔵というのも、やや小粒だが、味わい、バランスの点では申し分ない。東蔵はすこしもっちゃりしはしまいかと、見る前は一抹の危惧もあったのだが、見終わったあと、そんなものは跡形もなく拭い去られていた。波よ波よ波よ、越せ越せこせと力漕したあと、シーッと声をかけて棹で水を切る。左から右へ流す棹の先を、東蔵の目がすーっと追って、しばし見つめる。その目がなんともいい。逆巻く波濤が目に見えるようだ。しばし陶酔した。これぞ大人の芸である。

もう一人は、『加賀鳶』における秀太郎のお兼である。やや古くは多賀之丞、芝鶴というタイプも行き方も違う、いまとなっては伝説的なお兼があったが、近年では、田之助がもっぱらにしていた。しかしその田之助も、口惜しいことに、昨今は脚の疾患が目立つようになってきた。吉之丞という絶妙の隠し球もあるにはあるが、今後どうするのかなと気になっていた。秀太郎の実力はもとより隠れもないが、浪花っ子と江戸っ子の違いをいかにせんか、ここにも一抹の危惧が、じつは見る前にはあった。

だがそんな危惧は画餅に過ぎなかったことを、見終わったあと、私はひそかに秀太郎に恥じた。一癖もふた癖もある食えない女のしたたかさ、残こんの香というか、爛れたというか、すがれた女の色香、まず申し分ない。これだけのお兼を相手にしてつとまるだけの道玄がどれだけいるか、逆にそちらの方が心配になるぐらいのものだ。

東蔵といい秀太郎といい、齢のことをいってはなんだが、もう六十代も後半には入っていよう。若いころから力量は知る者は知っていたが、ようやくここへきて、実力は渋くも底光りがする、一段と照りを増している。へたな大関よりはるかに記憶に残る名関脇は少なくないが、そこがまた、なんともステキなのである。ところで『船弁慶』の染五郎に厳しい声があるらしいが、たしかに、柄を考えれば杵勝三伝の方でやる手もあったか。

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