随談第200回 観劇偶談(その92)あくび指南

このところに見た「新劇」というと、新国立劇場のユージン・オニール『氷屋来たる』と、文学座創立70周年記念という「角書」のついた六月のアトリエの会で見た別役実の二作品『数字で書かれた物語』と『犬が西むきゃ尾は東』がおもしろかった。

この二作には、それぞれ『「死なう団」顛末記』『「にしむくさむらい」後日談』という、角書ならぬサブタイトルがついている。サブタイトルつきの題名ということからして、その思いっ切りの悪さがすでに別役調である。どちらも、上演時間がぴたり100分。かなり長い。長いというのは、この場合、内容とのバランスという意味である。本当にこれだけの時間が必要なのか、ということを、別役ワールドを愉しむ一方で、たえず頭の隅で考えている「私」がいた。もちろん、ある長さがあってこそ、退屈と背中合わせのような別役ワールドが成立しているのであることは承知した上の話である。別役と背中合わせのあくびかな、という一句(?)ができた。

『数字で書かれた物語』は、はじめが昭和11年、二・二六事件のしばらく後、という時点からはじまって、一度時間が逆戻りしたのち、「死なう団」壊滅まで、編年体で進行する。すでに定評のある佳作で、寓意もよくわかり面白いことは紛れもないのだが、さて、「時代設定」がそう明確にされると、「時代考証」みたいなことも、別役の世界は世界として、気になってくる。現に演出も、あの秀抜な食卓の場面で、「缶入りの味の素」を持ち出してくる。神は細部にありといわんばかりの各優の演技もそうだが、さてそうなってくると、その一方で、昭和11年に女性がズボンをはいていたっけ、などという疑問も湧いてくることになる。戦後昭和20年代、『山の彼方に』などといった東宝映画で、角梨枝子という角ばった顔の女優が、ズボンをはく女優というので評判だったりしたのを、その手のことにはませた小学生だった私は、ナマ体験として覚えている。ましてや、若い出演者たちの「声」や「身のこなし」がどうしたって「あの時代」でないのは如何にせむ?

それと、あの優柔不断の神々のような「死なう団」の人たちが、最後になると急に決断よく死んでしまうのも、芝居の「大詰」というものは仕方がないのだ、と思うより仕方がないのだろうか。でもそれなら、あの教祖めいたリーダーっぽい人物が「三段に乗って大見得」を切って幕にしたっていいことに、はいくら何でもならないにせよ、だ。

「大詰」といえば、『氷屋来たる』の大詰も、あれだけの力作の末だから仕方がないとはいえ、やっぱり「三段に乗って大見得」の口だろう。パンフレットに内野儀氏が、結末のつけ方に「女性嫌悪」という近代の家父長制を支えるメカニズムが働いているという指摘をしているが、作者としてはああでもしなければ幕が下ろせなかったのではないかしらん。

この芝居は、私の目には、一種の探偵推理劇のように見える。市村正親演じるヒッキーという人物の謎を、もって回って先へ先へと引っ張るだけ引っ張る具合が、妙なところで、別役作品と反りが合ってくるのに気がついた。問題を先延ばしする優柔不断に、人間存在の不条理を見ようというわけだ。でさて、15分の休憩をはさんでネット2時間半を超えるこの作、本当にこれだけの時間が必要なのだろうか。オニールと背中合わせのあくびかな、かな?

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