随談第210回 観劇偶談(その100)桂歌丸を聴く

毎年夏の楽しみに、国立演芸場八月中席恒例の歌丸の円朝怪談シリーズを聴くことにしている。われわれの耳に馴染んだ語り口で、われわれの知る、ある種類の日本語の醍醐味に堪能しようと思えば、いまではもう、歌丸を聴くしかないからである。

なにも歌丸しか落語家がいないと言っているのではない。歌丸を稀代の名人というのでもない。しかしもうしばらく前だったら、円生とか八代目正蔵とか、先の金原亭馬生とかいった人たちが、それぞれの語り口で円朝の怪談を語るのを、われわれはごくなんでもないことのように聴いていたのだ。

そこでわれわれは、いや私は、なにを聞いていたのだろう? 円生や正蔵の芸だろうか? 円朝の怪談の面白さだろうか? あるいは夏の風情を楽しんでいたのだろうか?

もちろん、そのどれもである。しかし、そう言っただけでは、何か一番本質になるものを説明できていないのを感じる。そう考えつめて、その挙句に思うのは、あのころ私は、円生や正蔵や馬生の語り口を通じて、わたしが最も魅力的と感じる、日本語そのものを聞く楽しみに耽っていたのだということなのだ。

世に、朗読というものがある。「源氏物語」や「平家物語」からはじまって、現代の、文学に限らずさまざまなものが、朗読という形で音声として聞くことが出来る。まだテレビというものが出現する前に物ごころがついた世代である私は、一面からいえば、ラジオというもので人となったようなものだから、そこには「朗読」という形式が日常的にあったので、ごく自然にそれを聞いて育った。だから文章を書く上でも、意識的にも無意識にも、音読するリズムというものを抜きにしては書くことがないし、また出来ない。また、音読に堪えることを考えていない文章を読むのは苦痛で仕方がない。だから、基本的には、朗読というものを、わたしは嫌いではない筈なのだ。

だが実を言うと、いま世に市販され、流布されている「朗読」というものが、わたしはちょっと苦手である。新劇の俳優などが主な語り手になっている「あれ」である。なにか物々しく、わざとらしく、背中がむずがゆくなる。むしろNHKのアナウンサーのような無味無臭の読み方をしてくれた方が、余計な狂雑物が少ないだけまだいい。思うに、新劇俳優の朗読は、脚本を読むように心入れをし過ぎるからに違いない。

大分回り道をした。さてそこで歌丸の円朝である。今年は『怪談乳房榎』、通常なら三回程度に分けて語るところを、敢えて一回で読みきってしまうつもりと、歌丸自身、枕で振っておいて話に入る。3回程度、というのも、当然、円生のレコードに残したものが念頭にあって言うことだろう。円生では磯貝浪江がお関を口説くところが眼目なのを、歌丸は敢えて避けて、下男の正助を脅して重信殺しを手伝わせるところに力を入れた。一見、損なやり方のようだが、考え抜いた末の懸命な選択であったろう。

前にも書いたが、落語とは結局のところ、演者の語り口を聞くことにある、というのが今の私の実感である。少なくともここに、私にとっての快い語り口があるのは間違いない。

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