秀山祭の今月は吉右衛門の熊谷に止めを刺すが、熊谷については、『演劇界』11月号に劇評を書いたから詳しくはそちらを見てもらうことにして、一言評にすると、この熊谷において吉右衛門は正真正銘の二代目吉右衛門の熊谷を作り上げた、ということである。もちろん、いままでのだってよかったが、しかしそれは一所懸命、祖父や父に真似び、学んでの、秀才努力派吉右衛門の熊谷だった。しかし今度のは、そういうものとは違う。吉右衛門は、自分自身の熊谷を作ったのだ。『二条城の清正』にしても、清正に先代を、先代に自身を重ね、更には同化しようとする一念が、人の心を打つ。
玉三郎は、もちろん『阿古屋』の方が表芸だが、そうして非常に結構なものであるが、私は、福助と踊った『二人汐汲』の方を面白く見た。長唄の『汐汲』はそのままに、能の『松風』の主題を取り入れ、また『須磨の写し絵』にも通じている。松風村雨の姉妹が踊るさまはときに双面のごとく、その企画構成のアイデアと振付のエスプリ、とりわけ松風が行平の金冠と狩衣をつけて行平になり、村雨と色模様を見せるところは、玉・福ともにうまく気に入った。『阿古屋』は、玉三郎の心象を映し出して、ますます哀婉の度を加え、更に深まりを見せているが、やや私小説風に傾きつつあるともいえる。私としては、まさにグランド歌舞伎といった趣きだった国立劇場での初演の壮麗さが忘れがたい。重忠をつき合ったのは吉右衛門としては大奮闘。段四郎の岩永が竹田の人形芝居というエスプリを利かせているのが秀逸。それにしてもこれは不思議な芝居である。
團十郎が『身替座禅』で健在ぶりと大きな役者ぶりを見せる。そのめでたさがよし。家橘と右之助の千枝小枝がなかなか可愛らしい。思えば彼らは、もともとこういう役が本来の役者だったのだ。仁というものはおそろしい。現に、プログラム巻末の上演記録を案ずるに、昭和4~50年代、ふたりとも、両役を再三つとめている。
さて今月の一押しだが、いつも言うようにちょいとひとひねり趣向を利かせたところから選ぶことにしよう。候補は三つある。順不同でひとつが、玉三郎・福助の『二人汐汲』。理由は既に述べた。
第二は『阿古屋』における染五郎の榛沢六郎の爽やかにして程がよく、且つ、玉三郎・吉右衛門・段四郎と並んだ中に、すっと入って納まりのいいこと。『身替座禅』にも太郎冠者をつとめ、ご褒美というわけでもあるまいが、開幕劇として『竜馬がゆく』の主役をつとめる。「立志編」と題したこの脚本がなかなか出来がいいこともあって、染五郎竜馬、歌昇の桂小五郎、歌六の勝海舟とそれぞれいい。染五郎としては三本合せて、というところ。
第三は、いま言った『身替座禅』の家橘の千枝と右之助の小枝の可愛らしさと、その、時計の針を逆回しするようななつかしさ。
さてどれにしよう。難は、第一は真っ当らしすぎる。第二は、染五郎はすでに何度か受賞歴(?)がある。すると千枝小枝か?
え? どれにするのか、って。むにゃむにゃ言っているのへ耳をすませば、第一と思う人には一と聞こえ、第二と思うなら二、第三と思う者には三と聞こえたとか・・・