しばらくぶりに「50年代列伝」を再開。こういうものは続けないと意味がないデスネ。VTRで昭和30年作の『ジャンケン娘』と29年作の『ゴジラ』を相次いで見て、その中に写っている「時代の光景」に思わず唸った。一見無縁のような同時代性!
『ジャンケン娘』は当時人気絶頂の美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの三人娘をそろえて大ヒットした、その頃知らぬ者のないミーハー映画である。このとき彼女たち十八歳。これが大当りしたので、以後、シリーズになる。いま見ると、三人がひとつずつ大人になってゆく過程を見る、いい年代記になっている。相手役に、いまは消えてしまった山田真二とか、若き日の宝田明だのが出てくる。同時期、東映では錦之助・千代之介の『紅孔雀』が大ヒットし、新聞のインテリぶった批評子が、三人娘のヒットは判るが錦チャン千代チャンの方は判らんと書いていたのを思い出す。ともに、1955年という年のメルクマールである。ある意味で、黒澤や小津などの名画以上に。
第一作の『ジャンケン娘』では、ひばりとチエミが女子高校生で、修学旅行先の京都でふとしたことから舞妓のいづみと仲良しになる、という設定で、歌あり芝居あり、他愛もないなどというのは野暮、なかなか人をそらさぬ作りになっている。杉江敏男という、この手の作にかけては手だれの監督の職人芸も見事なものだ。それにしても、ひばりたちの演じる高校生の清純にして行儀のいいこと。ある種の紋切り型がそれ故にこそ社会を反映しているところに、この手の映画の価値があるのだ。三作目の『大当り三色娘』で、宝田明の好青年が多摩川べりあたりのスラムから世田谷あたりの高級住宅地にリヤカーを引いて越してくる光景も、「もはや戦後ではなく」なった時代を鮮やかに映している。
対照的に『ゴジラ』は、娯楽映画にしてそのじつ野心作という構図がいま見ると明瞭に見える。同じころ、旧軍部内の研究が原因で透明人間になった復員兵というテーマの『透明人間』という映画もあったっけ。(透明人間役の河津清三郎は主役にもかかわらず、めったにスクリーンに顔が出ない。透明人間だからアタリマエである。)ゴジラがビキニ環礁の水爆実験で太平の永き眠りをさまされて怒ったという設定については夙に知られているが、第五福竜丸事件から半年後の製作だというキワモノ性が、この映画の生命だろう。
ゴジラ襲来に備えて避難命令が出る。それを伝える口調が、ものの見事に、戦時中の警戒警報で敵機襲来を知らせる「軍管区情報」の口調と同じなのは、意図したことというより、戦後十年というこの時点では、おのずとああいう口調になってしまったのかも知れない。軍隊帰りの教師が生徒に号令をかけるとついあの口調になってしまう、なんて図は当時よくあったものだ。東京湾岸襲来を実況放送するアナウンサーが、自分が放送中の建物をゴジラに踏みつぶされる寸前、それでは皆さんさようなら、と悲痛な放送をするところなども、近い過去の体験を思わせる。
志村喬の博士、河内桃子のその令嬢、平田昭彦の研究員等々のおなじみの配役は、東映時代劇に勝るとも劣らぬ定番であり、なつかしさに随喜の涙が出そうだが、いまの目で見ると、令嬢の扱い方など、ゴジラに追われて逃げる途中転んで宝田明の恋人に助け起こされたり、いかにも古典的だ。そんなところも、東映時代劇を連想させる所以かもしれない。これって、ジェンダー論の対象かな?