随談第223回 久しぶり野球随談 落合坊主論

ずいぶんしばらく、野球の話をしていなかった。落合の話をしようと思うのだが、その前に、いまどきのスポーツ紙って、日本シリーズの記事を二面以下にして、亀田のアンちゃんがどうしたという記事の方を一面に載せるんですね。まして大相撲など、本場所の記事すら、どこに載っているのか、何度も探さないと見つからない有様で、ようやく見つかっても、一般紙よりも中身はぽっちりだったりする。

ところで、ことしの日本シリーズは去年のを裏表ひっくりかえしたような内容と結果となって終った。去年はセ・リーグ制覇をしたところで落合が泣いてしまい、シリーズは新庄に引っ掻き回されて終った。あれはあれで、なかなかいいシリーズだったが、今年の、とくに最終戦は、落合と、すっかり苦労人風の人相になった中村紀洋がヒーローという、すっかり大人のムードのシリーズとして終った。ビール掛けの模様などを見ていても、中日というチームは随分地味なようだ。職人型の選手が多いせいだろうが、たしかに荒木や井端など、江戸時代に生まれていたら腕のいい指物師か何かになっていたに違いない。

さて、シーズン中からずっと、とりわけクライマックス・シリーズなるものと日本シリーズの落合を見ていて、まず思うのは、人相といい風情といい、この人ほとんど坊さんのようになってしまったということである。帽子を深くかぶって、まばたきというものをまったくしない。何かを見つめているようでありながら、なにを見ているのか、実はわからない。巨人の原監督などとは対極にある人間なのだろう。原に限らない、12球団の監督で、落合ひとり、並みの野球人とは違う人相をしている。シリーズ前に頭を丸めたという、その頭を試合終了後に見せたが、坊主頭を見ればかえって坊主臭くない素顔になるかと思ったら、坊主頭になってもやっぱり坊主臭いままだったので、ちょっと感心した。

二年半前にこのブログを始めたとき、落合のオレ流というのに一脈の共感を抱くという意味のことを書いた筈だが、その一脈には実はかなり深く思いを致すところがあって、私はこの人物には相当の興味をもっている。好き嫌いとか、贔屓とかいうこととは、また別な話としてだ。まだ現役のころだったが、野球のユニホーム姿というのはいい大人のするものではない、ユニホーム姿がいちばん似合うのは小学生だ、とある番組で喋っているのを聞いて、興味を持った。こんなセリフは、原や長嶋の脳裏を一瞬だってかすめたことはないに違いない。つまりこの人物は野球というものに対して、「離見の見」を持っているのだと思ったのである。なにを見ているのかわからないあの目は、普通の野球人が見ようともしないものを見ているのに違いない。

最終戦で8回まで完全試合目前だった山井を、最終回ですこしの迷いもなく岩瀬に変えたことを、楽天の野村監督は、あんなことをする(出来る)のは監督が十人いたら十人できない、出来るのは落合だけだと言っていた。野村も面白い人物だが、しかし所詮は野球人中の変人である。この種の問題に正解は結果論以外にはないわけで、つまり理はどちらにもあるわけだが、きわめて「落合的」だという意味で、あれはやはり大正解だったのだ。つまり、オレ流を通したわけである。

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