随談第234回 50年代列伝(たぶん13)

今年は新派百二十年で近年としては公演の予定が多く並んでいるが、その手始めに一月は三越劇場で北条秀司作の『女将』をやった。戦後の新派隆盛期に花柳章太郎が現代劇に取り組んで成功した、いまや準古典だが、舞台は新富町、昭和27年の五月から六月頃と設定してある。この辺りはかなり後々まで古き東京の様相を留めていた土地だが、作意はむしろ、そういう土地の岸辺もアプレゲールというヌーベルバーグに洗われはじめた、その新と旧の潮の交じり合った時代の模様を描いている。世は歌につれるから、当時の流行歌をふんだんに流して時代を語らせている。久保幸江の「とんこ節」だの「ヤットン節」だの、その他まるで懐かしのメロディ劇のようでもある。

ところでこの1952年という年は、私にとっても忘れがたい年で、記憶がじつに鮮明に焼きついている。小学校6年生という年齢が、ちょうど、子供の自己完結した世界が壊れて大人の世界が急に視野の中に入ってくる、そういう時期にあったからだが、この年の四月、引越しと転校という「自分史」上の重大事と、引越しが前年のサンフランシスコ講和条約の発効の翌日で、数日後が皇居前広場が流血の場となったメーデー事件といった「社会的事件」とが、重なり合ったことが引き金になったのは間違いない。曲がりなりにも門があり垣根があり庭があるという土地柄から、道路に直に家が面している町場に移って、向かいの家のラジオからけたたましく飛び込んできたのが、美空ひばりの「お祭りマンボ」であった。あの衝撃は、おそらく呆けても忘れないだろう。

その五月の17日(と思っていたら、調べてみると19日である。この手の「記憶の誤差」は致し方がない)が、ボクシングの白井義男がハワイのダド・マリノを下して世界チャンピオンになったという有名な事件だが、七月のちょうど夏休みに入った日からヘルシンキ・オリンピックがはじまる。ラジオで雑音越しに聴く実況放送の悲壮感は、とうていテレビの比ではない。雑音が高くなったり低くなったりするのが、ちょうど海鳴りのように聞こえるので、本当に海を越えて聞こえてくるからと結構信じられていたものだ。戦後日本がはじめて参加したこの大会では金メダルはレスリングのたった一個だったが、最も鮮烈な記憶はその石井庄八の金メダルよりも、水泳の古橋が400メートルの決勝で「ビリになった」のと、ザトペックというチェコの長距離ランナーが、5千と一万で優勝をした余勢を駆って、一度も経験のないマラソンにも出て優勝してしまったという、この二つである。中山安兵衛の高田馬場駆け付けを、ザトペックのように走りましたが間に合いません、などと講談でもやったほど、当時それは誰もが知る事件であった。(私の祖母は、古橋という人は指に水かきがついているそうだ、と本気で信じていた。)

九月は前年から三場所制になった大相撲の秋場所で、このときから土俵の四本柱がなくなっていまのような釣屋根になったのと、関脇の栃錦が優勝して大関になったのがこの場所のハイライトだが、怒涛の寄り身といわれた横綱東富士の猛攻を右に打っ棄って軍配は東富士、検査長みずから物言いをつけて取り直し、今度は左に打っ棄って文句なしに栃錦の勝ち。体重26貫の関脇が48貫の横綱を右と左に打っ棄り分けたというのが、名人伝説となる。それまで栃錦は技能賞の常連で、優勝とは縁のない相撲と思われていたのだ。

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