随談第238回 50年代列伝(15)鞍馬天狗余談、附・時代劇50選番外篇

NHKの連続ドラマで『鞍馬天狗』が始まったせいかしらん、横浜の大仏次郎記念館で「21世紀の鞍馬天狗」と題する特別展が催されたり、池袋の新文芸座でも「時代劇グラフィティ」というシリーズ企画のなかで、アラカンの鞍馬天狗映画が三日間6本上映されたりといった動きが、このところ目につく。NHKのドラマは「鬼面の老女」に始まる初期作品を題材にした点など評価してよいところもないではないが、何となく変てこだ。白馬の使い方など、かつての「月光仮面」のオートバイみたいで漫画チックなのは、「逆手にとった」つもりなのだろう。小野宗房を天狗の正体としたのは脚色者の才気とも取れるが、海老蔵のやった大河ドラマの『宮本武蔵』で原作をいじくり回してワヤにしてしまった悪い冗談が思い出されたりもする。そうならないことを祈るばかりだ。

「鞍馬天狗展」はけっこう面白かった。少なくとも、はるばる横浜まで見に行って損した気にはならなかった。その図版も兼ねて文芸春秋から出た「新鞍馬天狗読本」も、かなりよくできている。それにしても、小説としての「鞍馬天狗」が正当に評価されるようになってきたことは、ともかくも結構なことだ。かつての大仏の読者の中には、『ドレフュス事件』や『帰郷』の類しか読まない手合いが、何割方かを占めていたものだ。文庫版の『帰郷』の巻末の解説に、これが「鞍馬天狗」と同じ作者の筆になるものとは思われない、などと書いてあったりしてたっけ。展示の中に、『帰郷』や『天皇の世紀』と『鞍馬天狗』の何篇かの一節を読めるようにしたコーナーがあったが、それを見るだけでも、『鞍馬天狗』も『帰郷』もまったく同じレベルの文体で書かれていることが歴然とわかる。文庫版『帰郷』の解説者が、じつは『鞍馬天狗』を読んでもいなかったことはあきらかだ。

新文芸座のアラカンの映画は二本しか見ることができなかった。1950年の『大江戸異変』と52年の『青銅鬼』。その52年から53年にかけてが、戦後のアラカン天狗映画の最盛期なわけだが、いま見ると面白いのは、新撰組や桂・西郷といった人物の扱い方が、この当時はまだ完全に、戦前のチャンバラ映画史観のままだということだ。桂小五郎は清潔な青年志士だし、新撰組の誰彼のキャラクターなど、当節の新撰組ブームしか知らない世代には信じがたいに違いない。沖田総司をやっているのは、なにしろ清川荘司なのだ。(名前が同音なのにいま気がついた。)つまり中年のおじさんで、胸を病んだ気配などさらにない。要するにこの当時は、新撰組隊士のキャラなどどうでもよかったのだ。

もっと面白いのは戦後初の天狗映画である『大江戸異変』では、舞台は新政府の管理下に置かれて間もない江戸という設定で、鞍馬天狗は浮浪児の群を集めて再生のための教育事業に精を出す。他にも、生きる目的を見失った黒川弥太郎扮する旗本とか、この江戸は露骨なまでに進駐軍支配下の東京なのだ。1950年はサンフランシスコ講和条約の前年だが、『新東京絵図』や『江戸の夕映』を反映させたあたりに、アラカン映画としては、ある意味で最も大仏的な作品ともいえる。大仏次郎監修だか検閲だかとタイトルにあった。監督並木鏡太郎。ところで、ここで珍しい女優に再会した。澤村晶子。即ち澤村宗十郎・藤十郎兄弟の姉、黒目勝ちの丸顔が藤十郎によく似ている。

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