随談第246回 雑談・衝動買いの2冊

つい最近、題名に惹かれて衝動買いをした本が2冊ある。といっても、一冊は中野翠の『小津ごのみ』、もう一冊はねじめ正一の『落合博満・変人の研究』だから、別に珍しい本ではない。

世に小津安二郎論の本は、(いつの間に、と言いたくなるほどに)あまた出ていて、書店で見つけても手にとって見ようという気にならないものも、中にはある。オタク族の詮索の対象になってしまったようなものは、読んでみればいろいろ有益なトリヴィアも見つかるのであろうけれど、まあいいや、という気に、ついなってしまう。中野翠のこの本は、実は、久しぶりに素直に買ってみようという気になった「小津物」だった。

装丁からして、いい。活字の組み方もいい。「小津ごのみ」と題する以上、こういうことは当然のことだが、あまり大きくないつくりでいながら、中に入ってみると、思いのほかに奥行きがあったりするところも、小津風でいい。何よりいいのは、著者のスタンスである。「デイィテールに関して、記号論的な(?)、あるいは性的な深読みをすることに対して違和感を抱いている」とご本人の言にあるが、まったく同感だ。いつの間にか牢固として出来上がってしまっている感じの「小津学」に、しなやかに挑んでいる姿に、しゃれた風情が感じられて、その心意気が気持がいい。

戦前の小津映画に相当の分量を費やしていて、飯田蝶子とか河村黎吉とか斉藤達雄とかにかなり触れているのも嬉しいし、戦後の典型的な小津物でありながら失敗作として顧みられない『お茶漬の味』を好きだという感性もわが意を得た。『お茶漬の味』は、『東京物語』ほど重くならずに、昭和20年代という時代を軽く、うっすらとすくい上げているところに捨てがたい妙味がある。たしかに偉大なる名作ではないかもしれないが、小津ファンを標榜しながら無視・蔑視する輩の感性は信じがたい。小津的というならこれほど小津的な映画もないのだ。ファッション、インテリアから「小津的宇宙」の構造を語る薀蓄もさることながら、「紀子のくすぐったさ」に見る小津という狭き門の入り方のスマートさも、この著者にしてできた芸当だろう。小津映画で成功する女優の人相を論じる男顔・女顔による線引きと、著者自身の肖像を重ねてみると、このあたりの含蓄はなかなか面白い。

『落合博満・変人の研究』は、「落合博満」の方が角書きで「変人の研究」の方が本題だと思って読まないとおもしろくない。落合のことは前にもこのブログに書いたが、好き嫌いとはべつに、現在のプロ野球人のなかで、私は落合という人物に少なからぬ興味を感じている。長嶋茂雄教の教祖みたいなねじめ氏が、じつは落合にも関心を持っているのは、この本にも出てくるように、落合が現役を引退したころ、テレビの番組で、ふたりが阿佐ヶ谷駅で待ち合わせて荻窪の鰻屋で対談をするのを見て以来知っていた。(当時私は阿佐ヶ谷の住人だったから土地勘がある。)果たして得るところ多々あったが、長嶋と落合を結びつける「ねじめ理論」はご当人でなければ実のところよくわからない「神秘」の領域だろう。その点、豊田泰光氏との対談で、長嶋さんの孤独を理解するのは落合だけ、というねじめ氏へ、先生、気でも違ったんじゃないですか、と豊田氏が応じるのを削除せず載せているのはフェアである。

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