随談第247回 志村アナウンサーの訃報

志村正順アナウンサーの死を、新聞のごくごく小さい記事で知った。小さな写真がつき、簡単ながらも往年の活躍の一端を業績として紹介する記事がついていたから、名前と肩書と葬儀の日程だけしか載らないのに比べればまあまあともいえるが、正直、ひと目見てまず思ったのは、エ、これっぽっちの扱いでしかないのか、ということだった。

いまの新聞社の現役の人たち、その読者の大多数、ということから類推すれば、こういうことになるのかも知れない。要するに、その活躍の時代をリアルタイムで知らないのであり、従って関心がないのだ。そういうものさ、と言ってしまえばそれまでなのだ。

が、それにしても、と思わないわけには行かない。私の「常識的判断」からするなら、つまり私がいま新聞社の現役としてそれ相応の立場にあったなら、記事はせめて四段か五段ぐらいの扱いにして、別欄にどなたかの談話なり、追悼か思い出の文章を載せるかするだろう。それぐらいの人なのだと思う。

数日後、東京新聞では一面の「筆洗」欄で扱ってくれた。少しだが溜飲が下がった。他紙のことは知らないが、何らかの扱いをしてくれていれば幸いだ。

昭和20年代から30年代にかけて、というのは、ラジオの全盛時代があっという間にテレビに切り替わってしまった時代だが、そういう時期に、志村アナウンサーは最も盛りの季節にあった世代である。戦前の六大学野球の実況放送で名をはせた松内則三アナとか、ベルリン・オリンピックの実況で「前畑がんばれ」と叫んだ河西三省アナとかは、戦後育ちの私の年代の者にはすでに伝説上の存在だったし、ヘルシンキ・オリンピックの放送の帰途客死した和田信賢アナなどは、むしろ『話の泉』の司会などで、大人向きの存在のように感じられていた。(その死に、「話の泉」の番組の中で、レギュラー出演者だったサトー・ハチローが追悼の自作の詩を朗読したのを覚えている。)志村アナにしても、テレビになってからでも活躍したが、その放送のスタイルからいって、ラジオにこそ本領があった人だと思う。そういう「時代」の人であり、その中で、最も斬新な放送のスタイルを作った人なのに違いない。

志村アナウンサーのほかにも、当時のNHKのスポーツ実況には、河原アナとか野瀬アナとか、名人芸を思わせる練達の放送技術をもった人たちがたくさんいた。河原さんは、派手で大衆的な人気も兼備していた志村アナに比べると、地味で堅実で、「通」向きの感じがして、そこがよかった。(ナニ、当時こちらは小学生だったのだが。)野球中継なら、「球は転々外野の塀」とか、強打者が「発止(はっし)」と打ったライナーを名手が「発止」と受けたり、相撲放送なら、「金剛力士のごとき大剛」羽黒山とか、「便々(べんべん)たる太鼓腹」の照国や鏡里といった常用句がいろいろあったが、思えば、この種の(いかにも教養の程を偲ばせる)常套句も、松内・河西時代から志村・河原世代のアナたちが作ったのだろう。

後年志村アナが、現役時代最も印象に残る放送は、という問いに答えて、体重が(今風にいえば)百キロそこそこの横綱栃錦が身長2メートルの大関大内山を首投げで破った一番で、大内山の巨体が弧を描いてもんどりうったのがいまも目に浮かぶ、と語るのを聞いたことがある。その実況中継は、私はラジオで聞いたが、場所後雑誌のグラビアで見ると、まさに志村アナの放送を聞きながら思い描いたとおりの光景が、連続写真で載っていた。

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