随談第255回 観劇偶談(その119)・今月の一押し 歌六・歌昇兄弟

今月は萬屋兄弟に止めを刺す。『高野聖』の歌六と、国立鑑賞教室『四の切』の歌昇である。それに、『高野聖』の次郎役の尾上右近と、義経の種太郎をつけ加えれば充分だ。

『高野聖』は全体としての出来からいっても出色である。玉三郎もいいし、海老蔵もいい。前者の聖性と魔性のはざまをゆく具合、後者の清冽の中のユーモア、どちらも、玉三郎ならでは、海老蔵ならではの面白さだし、市蔵の薬売りもさりげないようで、その存在感がなかなか効いている。ラストの落ちが効いているが、その落ちをつけるラスト10分間の長ゼリフを引き受けるのが歌六である。これが駄目なら、それまでの玉三郎・海老蔵の功労もワヤになってしまう。脚本としては随分むずかしいところだが、歌六は見事にやってのける。10分もの長ゼリフをこれほど熱心に聴き入ったのは、絶えて久しくなかったことだ。それだけの説得力があったということ、恐れ入った地力である。

歌六の実力は、いまでこそ万人の知るところだが、そうなったのは実はそう以前からのことではない。『息子』の火の番や『山吹』をやるかと思えば、『四谷怪談』の宅悦をやり『鮓屋』の弥左衛門をやる。これはという、一癖ふた癖ある役はもっぱら歌六のところへ持ち込まれる。しかもこれが、とても初役とは思われない。往くとして可ならざるはなし、と評されて然るべき活躍ぶりは、多少なりとも他人に先んじてその実力を喧伝したと自惚れている私としては会心の思いだが、しかしひとつだけ、不満がある。腕達者の脇役者というだけが歌六のすべてではない。自分の出し物をする歌六を見たい。昼の部第一の開幕劇でもよい。白塗りの二枚目がいいことは『輝虎配膳』の直江山城を見た者は忘れていない。瀬尾もいいだろうが、実盛もいいに違いない。そういう歌六も見てみたい。

もうひとり、阿呆で躄の次郎役の右近がすばらしい。劇中で唄う木曽節のすばらしさ。かつてかの市川雷蔵がこの役を振られたのにくさって映画入りしたという噂のある役だが、右近を見ると、雷蔵はこの役の重要さが判っていなかったのかと思えてくる。

両座競演になった『千本桜・四の切』は歌昇の好演により国立劇場の勝ちとなった。海老蔵の忠信は『吉野山』がなかなかのお勧め(伏し目がちの憂い顔など十一代目さながらだ)、『鳥居前』は荒事の魅力はあれど、セリフが変てこ過ぎる。150キロの剛速球がことごとく高めに浮きボール球となる荒れ球投手のよう。相手が空振りしてくれるので三振が取れるようなものの、往年の野村や落合のような沈着で皮肉な打者に出会ったら四球連発となるだろう。が、これはまだしもユルセルとしても、『四の切』はいただけない。初演のときはハチャメチャなりの魅力があったが、今度はなまじ確信犯としての自負が見え見えだけに、いかに海老蔵びいきの私でもほめるわけに行かない。セリフといい仕草や目つきといい、あれでは年増女だ。こういうものは、まず基本をみっちりやるべし。

歌昇は見事である。松緑直伝の富十郎と吉右衛門にびっしり教わったそうだが、芸には謙虚、舞台には意欲、両々相俟って人外の者の哀しみがひしひしと伝わってくる。思わず涙を誘われた。ついでだが、種太郎の義経もほめておきたい。父親ともども、教えも教え習いも習って、十九歳の若さを補ってお釣の来る、格と位のある立派な義経である。

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